farthesky

空から幼なじみ降ってこないかなあ

『天気の子』感想

『天気の子』観ました。大傑作じゃないですか、最高かよ。

観終わった後に曇り空でも、空を仰ぐことができて本当によかった。

以下ネタバレ全開での感想。

(2019.07.24.04:50、誤字修正と追記。)

 

エピローグラストの帆高君の台詞から始めたい。

僕たちは、きっと、大丈夫だ。

正直このエピローグ前までは比較的平静を保てていて、後述するような物足りなさもありながら、観たかった絵もどんどん出て来る満足感があったのだけど、エピローグでは、このラストシーンの情景に加えてそれに続くこの台詞が耳に入った瞬間から感情の手綱を握れなくなってしまい、昂ぶりきった感情に追いつこうとするかのように異様に鼓動と呼吸が早くなって色んなものが全部吹き飛んで、震えながら一筋涙が頬を伝うのを拭うでもなく呆然と画面を眺め続けることしか出来なかった。加えてこれはエンドロール時にわかったことだけれど、この台詞の直後にかかり始める曲は「大丈夫」とかいうふざけたタイトルで、それがまた歌詞と相まって後から更なる追い討ちをかけて来る。

この台詞はもちろん、明確に意識して新海過去作から引っ張ってこられている。一番印象的なのは秒速第一話の「貴樹くんは、きっとこの先も、大丈夫だと思う、ぜったい。」という明里の台詞、あるいは第三話ラストに一瞬映る明里が認めていた手紙に記されていた「(貴樹くん、)あなたはきっと大丈夫。」という文言だろうし、僕も天気の子を観る直前に『雲のむこう、約束の場所』を数年ぶりに見返していなければ*1、秒速が真っ先に頭に浮かんだのだろうけれど、この「大丈夫」というフレーズは『雲のむこう、約束の場所』ラストシーンでもやっぱり登場していて、最後目を覚ましたけれど「大切なこと」を忘れてしまったと泣くサユリに対して「大丈夫だよ、目が覚めたんだから、これから全部、また。おかえり、サユリ。」とヒロキが声をかけるのだ。このラストシーンとこの使われ方の符合!*2

そんなわけで、『天気の子』は実質『雲のむこう、約束の場所』のアップデートだと感じられた。ラストに加え「セカイの終わりかヒロインか」という基本的な構図からその選択結果、大まかなキャラクタ配置まで似通っている*3。「アップデート」と書いたけれど、しかしこれはものすごいアップグレードで、「大丈夫」台詞一つの強度をとっても全然違っていて、今の新海誠が雲のむこう〜をやり直すとこうなるのかという感動がある。

出来るだけ事前情報を入れないようにしていた僕にも観る前から『天気の子』には「セカイ系」という評が付いて回っているのは伝わってきていて(セカイセカイセカイ連呼の予告動画もあったし)、不安と期待とがないまぜになりつつ半信半疑だったのだが、観ていると頭の中で連想ゲーム的に浮かんでくる作品がエヴァ破/Q、AIRエウレカイリヤ等々で、こういった作品が頭に浮かんでしまうという意味で確かに今作をセカイ系だと呼びたくなる衝動は完全に理解できてしまった。むろん、散々指摘されているように、これらの作品の内容を個々に検討すれば「中間項抜きにきみぼくと世界の終わりが〜」といったセカイ系の理念型には適合しない。それでもこれらの作品のあるモチーフの断片に遭遇した時、セカイ系に触れているという気分みたいなものは確かにあって、必要十分条件的本質としての先のセカイ系の理念型に合致するかどうかで捉えると×判定が出るだろうけれど、もっと緩くモチーフの断片たち*4がなす家族的類似がそこにあると捉えることでこれらをセカイ系と呼びたくなる衝動は十分に理解できる。『天気の子』も先の理念型に合致しないのはいいとして、連想された作品たちと(本質的に)同じかと言われれても全然違うと答えざるをえないんだけど、少しずつ共通する断片はあって、それに駆動されてセカイ系だと言いたくなってしまう*5。あるいは同じことだけど、天気の子は明らかに前述の作品たちを意識し連想させてしまうような構図やシーンが織り込まれていて、セカイ系への自己言及性があるのが拍車をかけているのだろうと思う。

『天気の子』をセカイ系と呼ばせ足らしめているの基本的な構造は「キミかセカイか」の二者択一(で「キミ」を選ぶ、)というところなわけだけれど、この時の「セカイ」の内実が極めて具体的に描写されていることこそが良くも悪くも『天気の子』の大きな特徴だと思われる。例えば雲のむこうだったら、並行世界生成タワーで終わっていく蝦夷は基本的に航空写真しか登場せず、どんな土地なのかという描写がほぼないという意味で、そこで失われる「セカイ」は抽象的で、内容がない。だから、そこで主人公たちにとって失われているのは蝦夷ではなく、あの塔あるいは過去の約束の場所でしかない。失われたのはどこか遠くの場所であって、サユリとの約束(そしてその約束を担保するサユリ)そのものではないのだ。エヴァ破/Qも同様に、破で綾波を助けた代償としてQでは「終わってしまったもの」として見せられた「セカイ」はあまりにもシンジくんにとって遠すぎる。故にやっぱりここでもシンジくんにとって失われたのはセカイではなく、だから彼は破で助けたはずの今はもう彼の頭の中にしかいない綾波を取り戻そうとしてしまう。「セカイ」は彼らの自意識でしかないし、コミュニケイションはそこにはない。僕個人的にはこの抽象的で遠すぎて故に無内容なセカイ/超越性と、それ故ほぼ必然的に話が自意識の繭に閉じこめられてしまうというこの構図が大好きな子どもなのでこの点については正直ambivalentな気持ちなのだが、ともかく『天気の子』がそうなっていないのは確かだ。

『天気の子』においては都会/田舎といった対比も極めて薄く、序盤からずっと東京の風景が描かれる。それも単に俯瞰だったりするわけではなく、都会の路地裏のような雑多な風景が切り取られてくる。特に、新宿歌舞伎町や池袋ラブホ街のような都会の中でもちょっと「ヤクザ」な感じがして過度に煌びやかな街中はこれまでの新海作品では描かれたことがなく(たぶん)、それらが今作で新海誠の異様な風景解像度で描かれていることに対しては謎の感激すら覚えてしまう(バニラまで出てくるしね!)。だから、この積み重ねの果てに出てくる「セカイではなく陽菜を選ぶ」という選択で失われたのは確かに「この東京」であって、等身大のそこでキャラクターたちが生きた「世界」が失われたという感覚が確かにあり、故にあの水没東京の映像に鮮烈さと説得力とがある。正直、「セカイ」が東京でいいんか???と思ってしまう気持ちもあったのだけど、いや、それでいい、それがいいんだと言い切られてしまうようなパワーが確かにあった。

というのは、セカイが抽象性を失って具体的な内実を付与されるのに加えて、あるいはこれに連動して、『天気の子』世界における「セカイ」の超越性は一度相対化されるからだ。今作においては、天気/積乱雲/天気の巫女が超越性の位置を占めており、これは作中の道具配置としては例えば雲のむこうの塔/並行世界(という夢)に対応するけれど、最終的な作中での位置付けとしては全く異なるポジションが与えられることになる。あの蝦夷の塔も天気も遠くにあるのに、この地上にいる人たちの気分に影響を与えるものとして描かれている*6。また、蝦夷の塔が存在するのは「狂っている」のに日常となってしまっているように、『天気の子』における降り止まない雨も「狂っている」のに日常になってしまっている。そして、蝦夷の塔の侵食拡大を止めているのがサユリであるように、降り続ける雨の中に晴れをもたらすことが出来るのは陽菜である。

しかし、雲のむこうでは最後まであの超越的な「塔」は相対化されることがない。塔にこのセカイが侵食されるのはヤバいという話はずっと変わらないし、ヒロキにとって大事なのは現在から見たときの過去の消失点(にいたサユリ)でしかなく、この消失点を定めている/によって定まってしまった視点は変化しない。他方、『天気の子』における「狂った天気」あるいはその結果の「水没東京」は、途中の神主による800年前の天気の巫女の話や、瀧くんのお婆ちゃん(でいいんだよね?)の「ちょっと昔はこんな感じだったはずだから元に戻っただけ」といった話、あるいは須賀さんの「セカイなんて最初から狂ってたんだよ」によって、相対化が図られる。つまり「世界を変えてしまった」と言うときの変化のタイムスケールは人間の非常に限られたタイムスケールに過ぎないことを思い出させ、映像面でも視点をどんどん引いて最後は宇宙からみた地球の風景を映し出だしてより大きなスケールからの観点を提示することで、「天気」という普通の人間にはどうしようもない超越的存在をどうにかしてしまったというの帆高と陽菜の「超越性」の感覚を剥ぎ取ろうとする。

さて、ここでもう一度エピローグに戻ってくる。

あのエピローグラストシーンは文字通り神がかっている。雨が降り続く水没東京で、もう天気の巫女ではなくなったのに、まるで巫女装束かのようなレインコートを羽織って、目をつむり手を握って必死に祈り続けている陽菜の神々しさ。そして、その陽菜の姿を目にするまでは、先のような「大人の視点」を通じて「世界なんて初めから狂っていたんだから、世界がこうなってしまったのは誰のせいでもないんだ」と陽菜に慰めればいいのかなとモノローグっていた帆高は、しかし、あの陽菜の姿を視界にいれたとき、「いや、そうじゃないんだ、「僕たちが」変えたんだ」ということに気づく。自分が、この世界が狂ったままでもどうなってもいいと思って、彼女を選んだんだというを改めて思い出す。そういうことを踏まえた上での敢えてのあの「大丈夫」がある。

ここで、「世界なんて最初から狂っていたんだから自分たちにはどうしようもなかったんだ」という慰めの言葉を陽菜にかけていたとしたら、それじゃあ雲のむこうと同じで、全く無内容な、相手に届かない独りよがりな「大丈夫」になってしまう。でも、彼は、帆高はそうしなかった、そうじゃなかったんだよ……。

この「大丈夫」という福音をもたらす帆高、あるいは坂の上で祈り続ける陽菜は、 何か極めて抽象的なものに対して、自分たちの力が及ばない/及ばなかくなってしまった何かに対して、無内容に祈っているのではない。僕はこのシーンで初めて帆高と陽菜は真に出会えたんだという実感と感動があった。別に何か「大丈夫」であることを保証してくれるものはなく、敢えて言えば、その言葉の言霊だけがそれを保証している。この開き直りの凄まじい力強さですよ。無根拠性を分かった上で、それでも敢えて引き受けて、未来を言祝ぐこと。過去ではなく、今と未来を見ること。泣いてしまいました。

 

■07.24.04:50追記

とまあ上のファーストインプレッションをまとめていたときは、2回目の上映時間が迫ってくる中無理矢理にでもあのエピローグラストで確かにあった感動と衝撃を言語化してまとめねばというオブセッションによって、雑なコミュニケイション奇跡論でごまかしてしまっているんですが、Discordで感想戦をやってもう少し整理できたので追記します。

まず前提として、今作ではリアル対面コミュニケイションが表面上行われてはいるんだけれど、実際のところ帆高は陽菜のことをちゃんと見ていなくて、そう言う意味でのナルシシズムがある。例えば、風俗スカウトから無理矢理陽菜を連れ去るのだってそうだし、晴れ女商売をやるのだってそうで、後から陽菜によって追認されるとは言え、全て帆高が(陽菜がやりたいこととかはちゃんと考えずに)陽菜に押し付けた形になっていている。それ故ここに真の意味での(マジックワードだけど許して)コミュニケイションはない。

これはエピローグでも、あのラストシーンで祈る陽菜さんの姿を目にするまでは変わらない。つまり、陽菜さんへの罪悪感*7から帆高は陽菜さんにどう声をかければいいのか独りよがりに悩むばかりで、結局自分のことしか考えていない。

ところが、祈り続ける陽菜の姿をみた帆高は、そこで初めて彼女の思いに気づく。あの時初めて帆高は陽菜が自分と同じ思いを抱いているという確信の上で「大丈夫」と声をかける。ここで初めて、二人は対等に向き合えたのだと思う。ずっと(過去作も含めて)ディスコミュニケイションに覆われていたのが、あのラストシーンではじめて作中にコミュニケイションが出現し、しかもそれが「大丈夫」という言葉によるものだったという感動。

と、整理できたと思って追記したけれど、あんまり整理できていないかもしれない。まあ全てはあの時の衝撃を後付け的に説明するための理論なので、あのシーンで衝撃を受けてしまった背後に本当は何があったのかは永遠に謎かもしれない。

■追記終わり

 

これは余談になるけれど(いや僕個人にとっては全く余談なんてものではないのだが)このエピローグラストシーンがこんなにもダイレクトに僕に刺さった要因の一つには僕の個人的体験が少なからず寄与していて、あの田端駅と西日暮里駅を結び坂道は西日暮里駅脇に学校があったせいで中高時代にそれこそ無限に歩き回っていた場所だったので、あの時この身で体験していた風景が、このエピローグラストで、しかもあの神々しさを伴って登場してきたのに完全にノックアウトされてしまったというのはある。

 

物足りなさについて

完全にサイコーな気分ばかりについて書いてきたけれど、一方で、初めて観た印象としては全部が全部大好き要素で全肯定だったかと言うとそういうわけでもなく、新海誠作品で僕が好きだった要素は決定的に失われてしまい、それこそ世界が変わってしまったなという寂しさもあった。

僕はずっと、新海誠はディスコミュニケィション、それもすれ違いという意味でのディスコミュニケイションではなく、届かないコミュニケイション、他者とのコミュニケイションに到達することすらできないという意味でのディスコミュニケイションを描く作家で、それゆえモノローグでの語りによって醸し出される独特の閉塞的自意識の繭を持ち味とする作家だと思っていた。だから言の葉の庭以降、特に君の名は。を観た時の驚きと困惑がずっとあった*8んだけれど、『天気の子』はよりその傾向に拍車がかかったようで、先に書いたエピローグの感動とは矛盾するようだけど、全体としてはまだ上手く受け止めることができていない。『君の名は。』は冒頭のモノローグシーンを見聞きしたときには完全にこれだよこれ!!!とアゲアゲになっていたけれど、『天気の子』の冒頭モノローグでは全然そんな風には感じられなかった。モノローグに語らさせなくても、登場するキャラクター間のコミュニケイションの厚さによって状況を説明することができること故なのだろうが、そしてそれは良いことなのかもしれないけれど、一方でモノローグ語りが醸し出していた世界の閉塞感というか、private感とゆーか、どこまで行ってもナルシシズムなノルタルジーに満たされた妄想感というか(人によっては童貞感とか呼ばれるのだろうが、僕はあんまりこの呼び方は好きじゃない)、あの独特の世界観は喪われてしまったなという悲しみはある。子供なので……。

関連して、『天気の子』には道具立として手紙もメールも出てこなくて、夢は一応出てくるけれど一瞬で終わってしまうし、完全にリアル対面コミュニケイション重視になっていて、その傾向は言の葉の庭あたりから明確にあった気がするし、君の名は。の時にも主人公とヒロインが一つの人格をもってお互いコミュニケイション(とろうと)している!!!という驚きがあったので、僕が単に取り残されているだけなんだと言われたらそれまでなんだけど、それでもやっぱりマジかーと思ってしまった。

あとはこれも無関係ではないのだろうけれど、映像描写でもかつての静止画風景を上手く使ったPV的な魅力は失われてしまったなと感じている。『君の名は。』でも同じことを思ったけれど、風景や風景に映り込む身体の一部、あるいはこぼれ落ちる涙の雫といったものでの演出は減って、キャラクターの顔による直接的な演出が圧倒的に増えたり、それに伴って超近景や超遠景のパートが減少して中景が増え、またキャラクターが移動するのに合わせて視点も短時間での連続的移動が増えたりしているのは、僕的にはかなり寂しいなと思ってしまう*9。一方で何故かPV要素はスピード感ある曲に乗せての日常パート演出に使われているのだけれど、個人的には違和感が拭えない。

とはいえ、これらは総じて以前に比べてコストを潤沢にかけられるようになった恩恵というのが正しいだろうし、表現の幅が増えたと喜ばれるべきことなのだろう。ただ秒速までの映画やminori OPその他のPV的映像で強固に形成されてしまった僕のフェティシズムからは離れていってしまって寂しいなと。翻って、神宮外苑花火大会のシーンは、陽奈が屋上に出てから遠景カメラ回しから花火に分け入ってゆくシーンまで震えっぱなしだったし、それこそああいうシーンはコストかけられてこそだったろうからambivalentな気持ちです。

 

以下雑多な断片的感想。

  • 先述したように、冒頭のモノローグは健康感があって受け付けなかったんだけれど、冒頭シーンのカットは非常に好きで、まあたぶん天使の梯子とか窓に映った横顔とその向こうに広がる風景みたいなカットが好きなだけなんですが……。
  • それにしても新宿好きすぎるでしょとは思った。彼女と彼女の猫ほしのこえはどうだったか記憶が定かではないけれど、雲のむこう、秒速、言の葉、君の名と今のところ雲のむこう以降(星を追う子ども除く)全てに登場してるやん……。
  • もう何年もマックには行っていないけれど、ビッグマック食べたくなってしまいました。
  • 首筋ぴっちりチョーカー陽菜は性癖を突かれてちょっと危なかった。組紐より断然好きです。
  • しかしなんというか夏美さんの方がストライクなんだよな、夏美√を幻視してしまうし歳をとってしまった。。。
  • 親不在についてあまり突っ込まれないところとか、二段階の疑似家族形成とか、伝奇要素とかゼロ年代エロゲ!!!って感じでサイコー(個人の感想です)。
  • 警察に追われていることがわかって、陽菜と凪が家を出て行く決断をする時に「私たちは、大丈夫だから。」と帆高に言うシーンから俄かに緊張感が高まり出した。
  • どうしても京アニのことが頭のどこかにはある状態だった上に、池袋サンシャイン通りでトラックが大爆発するシーンの後にあったからなのだろうけれど、ラブホで帆高・陽奈・凪の三人が枕投げをしているシーンで、陽奈が投げた枕が帆高の顔に直撃した時の帆高の顔のへにゃり具合が、けいおん!の枕投げで枕を当てられた唯の顔のへにゃり具合と完全に重なって見えてしまって(本当にその通りのシーンがけいおん!にあったかは全く不確かなんだけれど)、あぁ……と。
  • 陽菜ちゃんの身体が緑っぽく透けるシーンは思わず「エウレカ!」と叫びそうになってしまった。
  • 児童相談所に凪の彼女1*10(CV:佐倉綾音)が面会に来た時に記入していた名前が「花澤綾音」であんまりにもあんまりでしょと笑ってしまった。
  • 終盤の逃避行とか線路走り続けるシーンとかはまあイリヤを思い出すわけで。
  • で、エピローグ。神。
  • いくつかそういうtweetを見かけたけれど、エロゲーTrue End感があるのはすごくわかり、内容やモチーフもさることながら、例えばいわゆる普通の映画の最後にあるスタッフロールの前にエピローグラストから連続的に続く感じで特別なエンドロールがあったりする形式は、Normal EndとTrue Endとでそのエンドロール/スタッフロール&ED曲が違っているある種のエロゲーの形式も思い出させる。(追記:2回目鑑賞で実感されたこととしては、グランドED曲「大丈夫」2ループ目突入と同時に白背景にタイトルが再びババンと提示されてグランドED専用スタッフロールになる流れもまたTrue感を一層高めているんだよなと思いました。あの全てが終わって作品タイトルがはじめとは彩りを変え再び画面に示される瞬間は、エロゲーで最後のワンクリックをした瞬間に近いカタルシスがあって(とはいえ実際には強制オートだったりするのだがまあ敢えて言えばそこも同じ)、エピローグラストでの感情爆発に心地よい余韻をもたらしてくれる。追記終わり
  • しかし、この雨が降り止まない異常気象という映画を、7月下旬になっても梅雨がなかなか明けないこの時に上映できてしまうという強運には改めてクラクラしてしまう。

 

一方的に吐き出すだけではなく、叩けば返ってくる相手と感想戦が、したい。

 

(BGM:大丈夫(Movie edit)(RADWIMPS))

*1:出来るだけ静かに、人の少ない環境で観たかったので26:45〜28:55という頭のおかしい上映回を選んでしまい、結果始まるまで時間を潰すために『雲のむこう、約束の場所』を観返していたのでした。

*2:こうなってくると、僕の記憶に残っていないだけで、他の過去作でも「大丈夫」が出てきているのではないかという気がする。

*3:細かくはやっぱり色々違うんだけど。

*4:もちろんそれらは必ずしも先の理念型に合致しない。

*5:セカイ系を単純化して「キミかセカイか」で捉えたとすると天気の子はそういう分類になるのだろうが例えばAIRとかはいやいやそうじゃないでしょとなるわけで、それでもやっぱりAIR連想しちゃうじゃないですか。

*6:例えば雲のむこうには、「あの塔は東京でも見えるんですね」「東京に来たら塔が見えなくなると思った」みたいな台詞がある。

*7:まずここに罪悪感があるところからして勘違いなのでナルシシズム野郎なのだが、まあそれがエロゲー主人公ぽくてよい。

*8:そしてそれでも君の名は。をモノローグ自意識の繭から出られていないディスコミュニケイションと読むには「あれは遡及的過去生成で夢オチなんだ」と解釈するしかなかった。

*9:といったことはminoriすぴぱらOPとそれ以前のminori作品OPを題材に昔々にエントリを書いた時に思った時と変化がなくて、変化のなさ……。

*10:番号は登場順です。