farthesky

空から幼なじみ降ってこないかなあ

猫撫ディストーション

 ハードルを上げ過ぎただけなのかもしれないけれど、正直そこまでだなーというのが全体的なファーストインプレッション。全般的にSFガジェットの使われ方が中途半端で、単なる衒学に堕してる感が否めない。設定に食われてると言ってもいい。世界の(物理的)基礎づけとしては、バークリの「存在することは知覚されることである」という命題と、量子系における観測を組み合わせて、見/観なければ世界は存在しない(確定しない)という設定をするのだけど*1量子論多世界解釈というガジェットを使って多世界的な世界観(いわば可能世界実在論)を構築し、世界を「観測する=観る」ことと、誰か(だけ)を「見る」という比喩的な表現とを重ね合わせて、そこに観測者=主人公=プレイヤーの選択/自由意志の領野を確保しようとするというのはもう本当に食傷気味だし、そもそも論理的に破綻している。量子論的な非決定性から導かれるのはあくまでもアトランダム性でしかなく、もちろんアトランダムであること、根源的に確率的であることと「自由」との間にはかなり大きなギャップがあるし、そもそも全く異なる概念である*2。単純な話、例えば観測者がz方向のスピン+1/2の電子を見たいと思ったからといって、その電子のz方向のスピンは+1/2だと観測結果として出るわけではない。そもそも、別に人間の自由意志による選択が世界を変える、というだけの話ならわざわざ量子論を持ち出してこなくていい。それどころか、むしろ量子論を持ち出して云々しようとするのは害悪であるとさえ思う(陳腐でダサいというのはもちろんあるが)。更に言えば、孫引きで申し訳ないが『恋愛ゲーム総合論集』猫撫ディストーション特集の論考「"圧倒的な現実"と"人間"が作り出す楽園」によれば、元長柾木氏は「「選択」が「人間の条件」である」と考えているらしい。しかし、それでは人間の条件、つまり人間を人間たらしめているものであり人間に欠かせないものであり、人間という存在に意味を与えているもの、言ってみれば人間の本質なるものは結局量子論における非決定性によって基礎づけられてしまうということだろうか?本質とは(たとえそれがある種の倒錯だったとしても)それ自体で価値をもつのではないだろうか?結局、人間の本質は量子論の非決定性に還元可能だということだろうか?そういう意味で、量子論をガジェットに選択/自由意志の素晴らしさをおしだすという戦略は自壊的であるとさえ思う(少なくとも、それが「選択/自由意志」といったものを通じて人間の「崇高さ」を描こうとするならば)。
 というのはさておき。上述したような物理的世界の基礎づけはぶっちゃけどうでもいいので措いておくと、すば日々をやった直後にプレイしたからというのもあるかもしれないが、猫撫の「"世界"観」は結構ウィトゲンシュタイン的というか、世界は言葉であり、それに意味を与えるのは「私」である、というのが基本軸になっているように思われた。比較的冒頭の方で琴子が本を読みながら言う台詞がウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』からの引用であることからも、多少なりとも意識しているのではないかと推察される。

歴史が私にどんな関係があろう。
私の世界こそが、最初にして唯一の世界なのだ。
―『猫撫ディストーション』七枷琴子/ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1916年9月2日

基本的にはどんなルートにおいても、世界に意味を与えられるのは人間だけであり、逆に言えば人間は主体的に(自らの自由意志で選択して)意味を与えなければ世界は存在しない、というのが根底にある。琴子ルートの最後では、世界=言葉でしかないのだからある意味で全部意識の中の記憶でしかないのだ、ということが語れるが、このことは猫撫の世界観の一つの側面を示している(このあたりの話は確かに使い古されている感はあるものの、基本的にはよいと思う。ただ、やっぱりそこに量子論的な多世界解釈を結合すると一気にダメになるなあ、とは)。あとは、ギズモの「驚き」というのも言葉をもたない故世界を分節化できないためのものだと考えれば『論考』における「驚き」と同じものと言えるだろう。で、そのギズモルートで端的に示されていたように言葉を使えること=意識があること=人間であることであって、人間のみが世界を創り出すことができる=世界を選択することが出来る、言い換えれば人間のみが世界を世界として経験できるのであって、人間だけが世界に関わることが出来るのだということが強調される。あるいはここで「人間は世界形成的である。/動物は世界貧乏的である。/石は世界をもたない。」(ハイデガー)という三つのテーゼを思い起こしてもいいだろう。猫撫で言うならば、人間は樹であり、動物とはもちろんギズモのことであり、石は結衣ルートにおける赤い宝石のことだ、ということくらいは簡単に言える。が、しかし人間ってそんなに特別だっけ?と僕は思ってしまうのも事実。
 そういえば、OPなんかでも「家族は揺らがない」などとうたわれているけれども、結局猫撫では各々のルートでは家族は壊れてしまう場合が多い。壊れずに永遠に残り続けるのは、ある種の畏怖すら感じさせる式子ルートのみであり(しかも式子ルートにおいて一度はもはや家族が「群体」に変質した)、他のルートでは七枷家は何らかの形で揺らいでいる。柚ルートならば樹がまさしく七枷家と決別することで、結衣ルートならば結衣と二人だけの世界に閉じこもることで、ギズモルートならば新たな家族をつくる、という形で。むろん、最終的にはそういう可能世界を見てきて、これからは家族のことをしっかり見よう的なオチに落ち着いてしまうわけだが。
 一番最後、結局プレイヤーを利用してメタフィクション的なオチをつけるのがまた個人的にはあまり面白くないなと思わされてしまうところだった。最後の日記を読んで云々というシーンが無ければまだ後味がよかった気がする。
 ただ、最後の最後のEDがOP曲の"Bullshit!! Hard problem!!"なのはすごく良かった。しかし"Bullshit!! Hard problem!!"というならはっきりと"Hard problem"が"Bullshit"だと言って欲しかった、というかそういう話にするのかと期待してしまっていたいた面もあり。結局Hard Problem (of consciousness)というのを使って人間を神秘化しているだけなのではないかな、という気がしてしまった。ついでに、「意識」の存在を量子論から説明しようという試みは、最終的にそれを選択や自由意志といった概念に結びつけようとするならば、個人的には上述したような理由から筋が悪いと思っている。あれ、少しくらいは擁護しようと思ったのに結局あんまり出来ていない…。

結衣ルートと式子ルート

 まず結衣ルートから。記憶((=過去)という情報)を失うことによる「永遠の現在」。

『意味が蓄積されているモノ』を残してると言うので、その意味ってどういう意味?と聞いてみた。
いろいろ難しいことを言われたけど、まあ、ようするに……。
郵便ポストがあの『形』をしてるのは、利便性と実用性と文化性による必然的な要求の結果であって……。
たとえ日本がどんな世界の国であっても、郵便ポストは郵便ポストとして、あの『形』になってただろうと。
そういう強固な意味を持った『形』を永遠に残したい。……と、そんな風なことだったと思う。
―『猫撫ディストーション』結衣ルート

このあたりは自然誌的必然と同じような話で、つまり結衣ルート全体とつなげるならば、過去を失っても、様々な形式と同じように幸せという「意味」も形式と見なされるくらいの強固さで残っている、という具合(カッシーラーの「シンボル」みたいなものかな)。しかしそれは逆に言えば、その幸福を自然誌的必然性と同程度に必然的なものとしなければならないということであって、必然なものとしての幸福というのはこの結衣ルートと式子ルートに共通したものだと思われた。
 このルートでかなりよいなーと思ったのは呼び名。結衣は基本的に自分のことを「結衣」という三人称で呼ぶのだけど、途中のクリスマス・イヴの日の公園での場面と一番最後の場面の二カ所だけ、はじめて「私」という一人称で自分のことを呼んでいて、更にそこではじめて二人称の「あなた」が出てくる、というのはテクニカルなところだけど、かなりうまかったなと思う。世界を「私」の名の下に引き受ける、ということ。
 次に式子ルート。一言で言って頭おかしい。このルートは前述したようなウィトゲンシュタイン的世界観・幸福観が割と前面に押し出されている。例えば、以下の文言はかなり直截にウィトゲンシュタイン的な幸福観を述べていると思われる。

【樹】「幸せに向かう、必然的な手続き、とか。」
【樹】「母さんのことを観るって、そういうことだと思うから」
必然的であること。
手続きであること。
つまり、疑いをもたないということ。
―『猫撫ディストーション』式子ルート(太字強調引用者)

…幸福の世界は、幸福を感じる主体の世界。
主体の世界では、永遠も一瞬も同じ。
【琴子】「つまりは時間は無意味となり、ずっと続いていける、というわけですか……」
【琴子】「あとはそれをどう具象化するかですね、兄さん。この、現実世界で――」
―『猫撫ディストーション』式子ルート

まあ言ってみればウィトゲンシュタインの『論考』はまさしく幸福に至るための"必然的な手続き"(はしご)について述べたものだと解釈するのが全体としては最も筋が通っているように思われるのだけど、式子ルートの恐ろしいところは、そのウィトゲンシュタイン的な幸福(観)をSF的な設定によって現実に可能なものとしてしまったところ―まさしく「永遠の相の下に」世界を見る/観ることを可能にしてしまったところにある。ウィトゲンシュタイン的幸福観がどういうものかについては前の『素晴らしき日々』蛇足エントリ(素晴らしき日々 - farthesky)に書いたので再度ここに書くことはしないけど、簡単に言えばそれは人が人間ではなくて天使になり、その生を肯定することだと言える。つまり、まずは「無時間性の中に生きる」ということが必要になる。公園で樹の両手が吹っ飛び火に包まれるという"儀式"はある種の"サクリファイス"であり、それは人間が天使になるための儀式である。また、樹が繰り返す「観測する」「ただ観さえすればいい」というのは対象の総体として世界を捉えること(=「永遠の相の下に」世界を見ること)であり、例えば「悲しみ」がない世界をつくるという話(森END)では、「悲しみ」という対象をみないことによって(「悲しみ」を対象の総体たる世界から排除することで)主体の捉える世界を変化させているのだ。やばい。いや、本当に*3

必要なのは―――
悲しみを正面から受け止めること。
だけどそれは、そんな暑苦しい表現をしたからといって、現実を見つめることとは違う。
そんな安っぽいことじゃない。
小さなことじゃない。
悲しみを、悲しみ以外のものと関連づけたりせず、ただ悲しみとして受け止めること。
俺たちは、ただ感じるだけでいい。
ただ悲しむだけでいい。
それ以外の意味づけは必要ない。
(中略)
救われないのは……感じたことに意味を付け加え、深みとか重みとかをでっち上げること。
そんな乱暴が、幸せをふいにする。
―『猫撫ディストーション』式子ルート

ただし、最後の場面ではここで語られているように「悲しみ」を世界から消去するのではなく、死の意義づけゲームから脱出するというのが目指されている。しかし、それは生と死との間に存在してしまう「幻想を食って生きる」「ヒト」ではなくなることには変わりない。死をただ死としてのみ受け止めること、そこに何らかの意味づけをなさないという態度はまさしく倫理的と呼ぶにふさわしいが、そうせずにはいられないのが人間であるというのもまた事実だ。そういう意味で、やっぱり式子ルート、人間をやめて幸せになるというのは恐ろしい。
 これら結衣・式子ルートを総括するような台詞として、琴子ルートにおいて電卓が以下のように語っている場面がある。

変化を否定することで、永遠を得るか、逆に変化を肯定することで、永遠を得るか
そして琴子。お前はそのどちらでもない存在としてここにいる。
―『猫撫ディストーション』七枷電卓

ここにおける前者、つまり変化を否定することで永遠を得ているのは結衣ルートであり、後者、つまり変化を肯定することで永遠を得ているのが式子ルートだと思われる。注意すべきは、式子ルートにおいては変化があることだ。

私たちは変わらない……だから、変わらないものだけを観ればいいんだ
―『猫撫ディストーション』結衣ルート 七枷結衣

母さんがくれたもの。
それは永遠。
ちょっとずつ変化しながら、循環を繰り返しながら、ずっと続いていくもの。
―『猫撫ディストーション』式子ルート

結衣ルートにおける「石」とは対照的に、式子ルートにおける「森」では木々の生死・循環といった「変化」が紛れもなくあるのであり、変化を決して否定していない。そして、結局永遠に至っているのは結衣と式子ルートであり、ギズモ・柚ルートは有限性にとどまる話だと言える。有限性にとどまるというのはすなわち無限に選択し続ける、ということでもある。逆に、結衣や式子ルートで体現されているウィトゲンシュタイン的幸福(観)においては、その生の肯定の絶対性が重要なのであって、一度生=世界を肯定するという選択をした先にさらなる選択は存在しない。もし存在してしまったら、生の肯定の絶対性が揺らいでしまうだろう。
 あとは、式子さんが緑なのはも森=守だからで、結衣が赤なのは(赤い宝)石=意志だからだなー、とかいう言葉遊びとか。

こまごまとしたところ

 「虚空の海」に「ディラックの海」とふりがなをふって読ませるあたりのセンスはかなり好きだった。


 なんだかとりとめもない感想になってしまったけど、とりあえずおわり。

*1:今ふと思いついたけど、「存在者とされるということは、掛け値なしに言って、変項の値と見なされることである。」というクワイン存在論的見解を使ったSFとか新しいかも知れないので誰か考えましょう(他人任せ)。

*2:というか、このあたりは色々と分析形而上学心の哲学ガジェットを使っている割にかなり流されてしまっているところな気がする。まず、決定論と自由は論理的に矛盾するわけではない、とする哲学的立場は十分にあり得る。そのためには「自由意志」という概念の中身をもう少し詳しく分析しなければならないが。あとは、量子論決定論の関係で言えば、量子論のようなミクロなレベルでの非決定性がはたして我々が日常観測するようなマクロなレベルに転出することがあるだろうか、とか、何らかの原因に基づく結果ではないと言われるそうした事象(非決定論・あるいはかなり強い意味での自由意志とはそういうことである)が、それでは一体何であるのか、とか問題は山積している。

*3:このやばさは『いろとりどりのセカイ』の藍が思い出された。