farthesky

空から幼なじみ降ってこないかなあ

ととの。

 ととの。に関するメモ書き。乱文なのは容赦願いたい。

 僕は作品を評するときにこの言葉だけは使いたくないと思ってきたのだけど、それでも、ととの。はつまるところオナニー作品なのだと言ってしまいたくなる。そりゃまあエロゲーなのだからそれはある意味で正しいのかもしれないし、脚本の下倉バイオも

なんて言っているもんね。
 もちろん、単にそういう意味なのではないが、まあさすがにこういう雑な物言いで何かを評するのはやっぱりやめよう。僕はこの作品が嫌いだということが伝わればそれでよい。というわけでここまでの文章はなかったことにしてください。


 それにしてもこのメタ言及のあまりの陳腐さはいったい何なのか。「いやいやギャグマンガの一発ネタじゃないんだから…」という失望感。それだけならばギャグというだけで済んだわけだが、この作品はその構造を利用してプレイヤー(あるいは、ギャルゲーという制度)に対して(倫理的ともいえるだろう)糾弾をし、是正を迫る。いや、糾弾するつもりなのだったのだろう、としかいえない。それが作中で既にしてあまりにも破綻した論理に思われるから。その批判の基準があまりにも素朴な地点に置かれているがゆえに、このような陳腐なメタ言及を介さざるを得なかったのではないかと邪推させられてしまう。そしてまたその批判/主張の偏狭さにうんざりさせられる。
 別に、素朴さそれ自体はよいことでも悪いことでもない。だが、それを基準にして行われる批判が、まさしくある種の「素朴さ」への批判だとしたらどうだろうか。しかも、その批判の根拠自体はさして批判されていないのだとしたら? もしそうだとしたら、それは自家撞着に陥っていると思われても仕方がないだろう。
 雑に言ってしまえば、この作品は「1対1の永遠の/真実の愛」というイデオロギーの下、複数ヒロイン攻略制度を批判する。いや、これは正確ではない。複数ヒロイン攻略制度というよりは、複数ヒロインを攻略するという行為を批判しようとする。しかもその責任を選択肢を選ぶプレイヤーにあるものとして。だが、ここにおいて既にいくつもの乖離があり、矛盾がある。たとえばここに出た語で言えば、素朴な「攻略」という行為は批判されるのに、素朴な「愛」は批判されない(そもそも、「攻略」と「愛」は別の概念なのではないか?)。素朴な非一貫性は批判されるのに、素朴な「選択」という行為(こういったほうが分かりやすければ「選択肢」の存在)は批判されない*1
 そして極めつけには、素朴なプレイヤーは批判されるのにもかかわらず、しかしなぜか、本当になぜかとしかいいようがないと思うのだが、素朴なカミサマは全く批判されない(それどころか「現実」ではこの「ゲーム」(の「作り手」)は絶賛されてすらいるという有様だ)。プレイヤーが物語を選択している?(一貫しない)選択のせいで問題が生ずる? 寝言は寝て言っていただきたい。そうではない。事実はこうだ。プレイヤーは選択肢から選ぶことは出来るかもしれないが、選択肢そのものを選ぶことは出来ない。プレイヤーは選択の選択はできるが、選択自体は出来ない(こうして容易に、すべてのフィクションはメタフィクションとなる)。とすれば、もし提起されたような問題があるのならば、そしてそれが批判されるべきものならば、それは根本的にはその作り手が批判されるべきではないか。そもそもこんな物語を生み出したやつが悪いのだと。自分で勝手につくった(そう、見出したのでは決してない)問題の解決に他人を巻き込まないでくれと。
 この突っ込みはあまりに野暮なのではないかとする向きもあろう。もちろん作品によってはこんな突っ込みは野暮だ。たとえば批判がきちんと徹底されるのだとしたら(統一的・観照的立場にある「神」の解体に向かうとかね)、確かにこんな突っ込みは全く生産的ではない。あるいは、そもそもそこに問題を見出していない作品にこんな突っ込みをするのは滑稽にみえることもあろう。だが、この作品は果たしてこの突っ込みが野暮だといえるようなゲームだったろうか? 二重の意味でありえない。第一に、結局は素朴な「現実/虚構」という二項対立の下で現実=プレイヤーを安易に外部と設定した上で、そこを最終的な安定点とする(しかもそのように安易に設定された内部-外部の構造こそがプレイヤー批判を可能にしている)という不徹底性は明らかなのだから。それに加え、第二に批判はその対立を生み出したカミサマ=作り手に手付かずのまま、それらはイノセントに残るのだから。思わずうっかり、なんちゃらのディストピアだとか言ってしまいそうになるくらい、既存の制度を拡大・温存しているだけだ。


 確かにゲーム冒頭にはこんな記述があった。

毎日は、道じゃなく、階段のように過ぎていく。

一度疑問に思ったらその途端、毎日が辛くなる。

だから、一歩、一歩、なにも考えずに上る。

階段だから、別れ道はなく。

「あの時ああしておけば」なんて後悔は無意味で。

「人生は選択の連続だ」なんていうのは、失敗してから振り返って思う、後悔の絞りかすみたいなものだ。

過去の少し先にある、当たり前の明日へ。

一歩、一歩、進んでいく。

――『君と彼女と彼女の恋』

 だから、たとえば「選択」が作り出されたものだということをこの作品は自覚していたはずだ。事実、このゲームの終盤、そのシュジンコウにすら露骨にプレイヤーの存在が意識されるようになってからの選択肢は象徴的である。「選択肢も現れず――」などという独白すら選択肢の形をとっている。だから、その所与性が偽装されたものであることは確かに匂わされる。しかし、それはよりこの作品のタチの悪さを際立たせるだけに終わる。選択肢という所与の神話が批判されることは決してない。あくまであの演出はプレイヤーへの説教のためにのみにあったということになる。


 この作品が、ヒロインが二人以上いることから必然的に生ずるヒロイン間の交換可能性をある意味で否定しようとしていることは否定しがたいだろう。そして、そのように物語を運ぶならば、ヒロインの交換可能性から演繹されるであろう(あるいは、その可能性の条件たる、といった方がいいのかもしれないが)「シュジンコウ」の交換不可能性も否定されることになる。確かに、このことも意識されているようにみえる(アオイの「たくさんのシュジンコウをコウリャクして/(中略)/もう、シンイチルートは、コンプリート」といった台詞)。だが、結局プレイヤー=「主人公」の交換不可能性は肯定されることに引きづられて「シュジンコウ」の交換不可能性も肯定されてしまうこととなる*2。ヒロインの交換可能性は否定しておきながら、主人公/シュジンコウの交換不可能性は肯定する。カミサマをイノセントに残すことで、このような矛盾した事態が可能になる。もっといえば、その矛盾を一見可能にしているのは、ゲームのルールでは決してなく、素朴な「現実」の素朴な常識でしかない。
 あるいは、美雪が口にする3の30乗というランダムなパターン。ヒロインのもつその特別さは何も必然的な運命ではなくあくまで偶有的なものだと明言されていることになる。一方で、まさしくそのパターンは所詮は作り出されたものだという認識も確かにある。だが、この両義性はいかされることなく、やがてこの事実も「ああ、現実と虚構の間にある深い溝を乗り越えてまでこの愛を貫かねばならないなんて!(あるいは、虚構においてまで現実を貫かねばならないなんて!)」といったような形で、現実/虚構という対立の強化に回収されてしまったようにみえる*3。直後には、呪いのせいで美雪が「真実」の幸せを掴むことの出来ないというくだりがあるが、このレトリックなど明らかに逃げだろう。作り出された偶有性という両義性が認識されているならば、そんな言葉で何か意味をなそうとしても叶わないはずだ。


 結局、この作品の理路だけを追うならば、ゲームのプレイヤーたる我々は「私はなんとひどい選択をしたのだろう!」と言う代わりに「ゲームをプレイするときに、なんという恐るべき事態を私は想像しなければならないのだろう!(私の肩に背負わされた務めの、なんと重大なことよ!)」(cf.『イェルサレムアイヒマン』)とだって言うことができてしまう、いや、より正確には後者の態度に誘導してすらいるのだといえないだろうか。まさにその「問題」の「最終的解決」をみるならば。そうだとすれば、この道徳的カタストロフのような態度を引き起こすものにどこかほめるべきところがあるのだろうか?


 (で、まあこのあたりの突っ込みというのは例えば、いろセカ/いろヒカに対してもまた別の理路でしたいものなのだが、いろセカ/いろヒカはまだ作中に作者批判の芽があるのが救いで〜、という話はそのうち時間があれば。)


 そんな僕は(幼なじみが大好きなのにもかかわらず)何の迷いもなく、アオイを選択した、と最後に書き記しておこう。


P.S.
 ああ、そういえばライナーノーツはさすがに読むに耐えませんでした、とだけ。たぶんこんなに不愉快なのはライナーノーツのせいでもある。


■追記1:29
公開した直後に追記するのもアレだが。ついでに誤字修正しました。
"結局プレイヤー=「主人公」の交換不可能性は肯定されることに引きづられて「シュジンコウ」の交換不可能性も肯定されてしまうこととなる。"というのは、たとえばアオイルート最後の

【アオイ】それで、ベツのシュジンコウと――
それは、俺だ
――『君と彼女と彼女の恋』

なんていうところに象徴されている。美雪ルートがどうだったのかは知らないし、知る気力も無い。


■更に追記(7.12.4:48)
 tweetしたのを貼ればいいやと思いきや自分で鍵をかけていたことに気づく午前4時半。
 twitterながめてたらあんまりにもあんまりな感想がTLに流れてきたので。

 先に断っておきますが、別に人の感想にどうこういう気は全くない。しかし、まあこの反応はあまりにも極端なものだとは思うけども、highcampus氏が述べているようにこれと同種の反応を引き起こすことが「狙い」だったろうということはライナーノーツなんかから予測がつく(故に読むに耐えない)。そのようなことを狙っているのがあまりにも不愉快だということで。上で書いたこと以外でもう一言だけ。
 ヒロインがプレイヤーに直接語りかけてくるだとか、3の30乗のランダムなパターンが〜だとか、あとはまあ「選択肢」が〜だとかいったこのゲームの「仕掛け」は、プレイヤー(とそれに1対1で対応するヒロイン)の体験が交換不可能な固有性をもつことを主張しようとする(ってのはもう書いてましたね)。しかし、上の感想が象徴するように、その体験をプレイヤー同士が共有していないこと、より正確には、共有していないということに定義上なっていること、そういったある種の欠如や否定性が逆説的にも強い共同性(の幻想)を生み出してしまう。「自分以外の他の誰とも交換できず一般化もできないような、まったく一人だけの孤独で唯一の体験/感情」は、その文字通りの意味をほぼ確実に裏切り、『君と彼女と彼女の恋。』と名づけられた特定の断片/外傷を絶対化する。そのことによって、そこには「誰とも交換しえない体験」というものを共有しているという逆説的共同体が作り出されてしまうのだ*4。しかも、このようにして立ち現れる共同体の共同性はそもそも誰とも共有しえないのだと定義上されているのだから、何か具体的なもの/ことに回収されることがないことがその定義上保証されている。それどころかここでは、イデオロギー対象としての体験は、具体的内実をすべて欠いた崇高な対象になったときにこそ最も強力に機能し、かつその機能はあらゆるプレイヤーにとって必要とされているという結論が導かれる(ゆえに何の限定詞もつけず「美少女ゲーム」「僕たちオタク」といったような語りが誘導されてしまう)。こうして、既存の特定の共同体による解釈を避けようとして組み立てられたものが、またたくまにまた別のレイヤーで閉鎖的共同体を生むことになるのだ(ゆえに「評価は100点と0点しかありえない」と語らされてしまう)。
 で、まあ僕はこんな風に孤独に偽装された共同性を生み出すよう誘導するものなんてくそくらえと思ってしまうのでした。

*1:ここで「批判」というのは、その可能性の条件をきちんと見定める、というような意味も含めて、だが。

*2:末尾に少し追記

*3:とはいえこのあたりはもし気力が将来あれば読み返しておきたいと唯一思わされた。ので、多少あやしい。

*4:うるさくいえば、ここにもメタ構造は介在している