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空から幼なじみ降ってこないかなあ

すぴぱらのムービーとか新海誠とか

 『すぴぱら - Alice the magical conductor. STORY#01 Spring Has Come !』(以下『すぴぱら#01』。正式タイトル長い…)をちまちまとすすめているのだけど、どうしてもその画面から違和感を覚えてしまう場面があるのでそのあたりについて少し…と、本当はゲーム画面の話をするつもりだったのに、ムービーの話になってしまった。どうしてこうなった。
 現時点での暫定的な結論を先に言うと「キャラクターの〈顔〉と〈風景〉は両立しないのではないか」という感じ。

ムービーにおける風景

 まず前提として、我々は世界を一挙に捉えることは不可能であり、何かを見るときには必ずなにがしかの視点が設定されなければならない(少なくとも、そういった考えを刷り込まれている)。形式的には、風景とは一人称視点からのパースペクティヴ(遠近法)によって統一的に把握される対象のことであり、それは消失点がただ一つだけ設定されているということでもある。すなわち裏返せば、一人称視点から見たパースペクティヴ(遠近法)によって統一的に把握されているように画面が構成されていれば、我々はそれを風景として読んでしまう。
 ムービーにおける風景を考えてみたい。minoriの過去作ムービーの大半で監督を務めてきた新海誠の映像(及び明らかにその影響下にある『eden*』『すぴぱら#01』ムービー)ではその風景がまず何よりも特徴だと言える。通常、風景や背景は単に人物(=前景)がいる場所を定位するものでしかなく物語に従属しているのに対し、ここではそれが逆転されており、まず第一にあるのは風景であって、風景により物語が構成されている。そして、風景こそが物語を描き、キャラクターの内面描写をしているという意味において「風景はキャラクター化している」と言ってよく、また逆に画面全体が風景として見られるということは、そこにキャラクターが映り込んでいることを考えれば「キャラクターは風景化されている」と言えるはずである。ここでは背景/前景といった二元論は成立しない。また、より正確に言うならば、風景/キャラクターといった二分法も成立しない。風景がキャラクター化しており、かつキャラクターが風景化されているということは、両者は渾然一体となって〈風景〉をつくりだしているのだ。いわば、そこでキャラクターはその〈風景〉に投げ込まれた存在であり、その〈風景〉の参加者になっているのである。

minori過去作ムービーとの比較

 このことは、例として『Wind - a breath of heart - Re:gratitude.』(以下『Wind』)のムービー、『ef - the first tale.』のムービー*1を見てみるとわかりやすい。そして、それらのムービーと今回の『すぴぱら#01』のムービーでは大きな違いが存在する*2



 これらのムービーを見比べてすぐに目につくのは『すぴぱら#01』ムービーにおけるキラキラ感―"新海フラッシュ"がほぼ全シーンにおいて用いられていることだが、それはひとまずおいておくとして、ここで注目したいのは『すぴぱら#01』ムービーにおいては他の過去作ムービーに比べてキャラクターの〈顔〉が画面に(比較的大きく)写っているシーンが多いということである。もう少し正確に言うならば、キャラクターの動く〈顔〉全体だ。過去作ムービーにおいては、キャラクターが画面に大きく登場するとしても、その多くはキャラクターの「手」や「脚」など身体の一部分のみがクローズアップされての動きであったり、頭部の一部分だけが映っているのであったり、キャラクターの背面が映っているような画面構成であった。あるいは、キャラクターは(表情の判別が出来ないほど)遠くに映っていた。画面に映っているものは全て〈風景〉なわけだが、その意味で、このような形で画面に登場するキャラクターはまさしく〈風景〉化できている。もちろん『すぴぱら#01』ムービーにおいてもその傾向はあるが、やはり他の過去作ムービーと比べた場合、基本的にキャラクターの顔あるいは全身(もちろん〈顔〉を含む)が画面を占めていることが多いと言えるのは確かである。
 また、確かに過去作品においてもキャラクターの〈顔〉が大きく画面を占めているシーンは存在する。しかしそれらの大半は、端的に言って〈風景〉ではないものとして位置づけられている。たとえば、『ef - the first tale.』ムービーにおいて4組の男女の顔が連続で大きく映し出されるシーンがあるが、そのシーンは新海誠の『ほしのこえ』において唯一〈風景〉ではなくなっている(が故にカタルシスを生む)ラストシーン―美加子と昇の「ここにいるよ。」という台詞が文字通り天文学的な距離・時間を超えて重ねられるシーン―と同じようなものであると言ってよい。そのシーンはまさしく〈風景〉の文法が破れているところであり、そのことが画面構成から一目でわかるようになっている(一人称視点である我々の視界は普通あんな風には占められないだろう。また、『ほしのこえ』のラストシーンで画面に映るのは「ここにいるよ。」という"文字列"である*3)。『Wind』のムービーについても同じようなことが言える。
 〈顔〉は他人を認識する際、最も重要となるファクターの一つだと言っていい。我々が他人の〈顔〉を見るとき(普通はその一部分だけを見るようなことはなく、一気に顔全体を見せられているわけだが)、その〈顔〉のみから我々は様々なこと(主として「内面」に関すること)を読み取ることが出来る。そしてたとえば、多くの実写の映像においては主に人間の〈顔〉を用いることによって、人間の内面描写=物語を構成していると言えるだろう。ここで注意しなければいけないのは、実写の映像における三次元の人物の〈顔〉はその輪郭のなかでは(本人が意識している以上の)相当に高い解像度を持ち、多様な変化に富んでいるからこそ、我々はその〈顔〉を一種の「内面」を表すものとして違和感なく捉えられる、ということだ。そして、このように実在する人間の〈顔〉に宿る豊かさ―現実の人物の解像度の高さ―をそのまま("リアル"に)二次元のアニメーションで再現するのは、コスト的に考えてもかなり難しい。

新海誠

 そうした状況のなかで、新海誠のアニメーションでは独自の手法が編み出されていると考えることができる。それは、先に述べたように〈風景〉をキャラクター化すること/キャラクターを〈風景〉化することである。いわば、〈風景〉によって内面描写をし、物語を描くための解像度を確保するために、キャラクターの〈顔〉を映すのではなく〈風景〉を映す、あるいはキャラクターそのものを〈風景〉化するという手法だ。
 映像表現におけるキャラクターの〈顔〉には、輪郭という限られた範囲のなかで高い解像度を実現しなければならないという制約がある。しかし一方で〈風景〉にはこの〈顔〉の輪郭に当たるような範囲の制約は存在せず、〈風景〉を切り取るのはその視点―画面でしかない。つまり、「内面」を描写するために〈顔〉と〈風景〉のどちらかで同じ解像度を実現しようとするとき、画面のなかでさらに輪郭によってフレーミングされてしまう〈顔〉より画面を独占できて範囲を自由に決められる〈風景〉を映した方がよいということになる。これはつまり、〈風景〉は局所的な解像度が〈顔〉に比べて低くても大局的には高い解像度を得られるということでもある。また、キャラクターそのものを〈風景〉化するというのは、キャラクターを映すときでもその一部(身体の一部は基本的にどのように切り取ろうと自由である)のみを映したり、キャラクターを表情が判別できないほど(〈顔〉の解像度が問題にならないほど)遠方に配置することで、キャラクターそのものを〈風景〉の一部に溶け込ませるという手法である*4。たとえば、キャラクターが泣いているのは、キャラクターの泣き〈顔〉を映すのではなく、「水滴」を映し出すことによって表現される。
 さらに、新海誠作品のテーマが「距離=時間×速さ」の三つであることを考えれば、〈風景〉はそれらの変化による物語を描くためにはもちろん静止画的な〈風景〉ではあり得ない*5。そこでモンタージュ・遠景化やカメラ移動などの技法が使われることになる。逆に、遠景化やカメラ移動によってはじめて〈風景〉は見出されたと言ってもよい。また、たとえば、新海誠の映像において「雲」が主要なモチーフになっているのは偶然ではないだろう。人間の生きる時間スケールに比べて遥かに長いスパンで変化していく大地とは異なり、雲―空の変化は我々の生きる時間スケールの内にその変化を見ることが出来る。また、「電車」というモチーフも同様である。車両の中の風景といえば一見変化に乏しいように思われるが、新海誠作品では電車の窓を通じて入ってくる光の移り変わりが捉えられており、その光量の変化を描くことで電車の仔細な走行が見事なまでに表現されている。さらにそういった局所的な変化だけでなく、〈風景〉によっては大局的な変化までもが表現される。たとえば『秒速5センチメートル』において第一話の電車は二人の距離が引き延ばされながらも確実に近づいていくことを示しているが、第三話ラストの踏切のシーンでは、まさしくその電車こそが二人の間に広がる決定的な断絶を示しているのである。そして、そのような変化がキャラクターの〈顔〉によってというよりは〈風景〉によって描かれている*6。他にも例を挙げればキリがないだろう*7

すぴぱら#01』デモムービー

 以上、(話が横道にそれすぎたものの)これらの議論をふまえれば、minoriの過去作ムービーについても前述のような「キャラクターの〈顔〉を映さずに〈風景〉化する」という手法がとられていたと考えられるのではないだろうか(たとえばキャラクターの身体の一部はその〈顔〉ほど解像度を要求しない)。この手法が用いられていたことで、過去作のムービーではたとえばキャラクターの〈顔〉を画面に押し出すために〈風景〉の文法を意図的に破る、といったような箇所が存在していた(ex.画面が分割されて四組の男女の〈顔〉が映るシーン)。しかし、今作『すぴぱら#01』のムービーにおいては驚くべきことに、こういった〈風景〉の文法が破られている箇所が一つも存在しないのである。これはつまり、『すぴぱら#01』のムービーは全編にわたって〈風景〉となり続けるようにきわめて意識的に構成されている、という事実を明確に表している。しかしそうであるにも関わらず、前述したように『すぴぱら#01』のムービーではキャラクターの〈顔〉が数多くのシーンで映し出されるようにもなっているのだ。
 『すぴぱら#01』のデモムービーは大きく分けると三つのパートからなっていると言える。最初のパートは魔女アリスの独白シーンであり、第二は学園パートとでも呼ぶべきシーンであり、第三は魔女アリスの飛翔シーンである(これで通じて欲しい)。もう少し詳しく見るならば、『すぴぱら#01』のムービーでアニメーションになっているところは日の出→朝→昼→夕方→夜→翌朝と一日の変化を追っていることが分かる。日の出が映るところは箒に乗って空を飛んでいるアリス視点だと考えられ、朝(登校)・昼(学園)・夕方(下校)が学園パート、夜がアリス飛翔シーンとなっている。このようにデモムービーから学園パート・アリス飛翔シーンなどという大きなわかりやすい単位を取り出せてしまうことは、『すぴぱら#01』のムービーが時間的な連続性を意識し、ムービーの自律性を意識して作られていることを示していると言えるが、これは特に『Wind』のムービーなどとは対照的である。
 さて、〈風景〉のなかに〈顔〉が映し出されるカットが多いのは主に学園パートである。この部分は確かに〈風景〉の文法を守っているという意味では新海的な〈風景〉を採用しつつも、キャラクターの〈顔〉が大きく映り込んでいるためにキャラクターが〈風景〉化されているとは言い難い。〈顔〉も〈風景〉も内面の描写装置である。しかし、一つの画面に〈顔〉と〈風景〉とが同時に映り込んでいる場合、そもそも焦点がひとつに定まらない気持ち悪さがある(〈顔〉と〈風景〉のどちらを見れば良いのか)*8。ここでは〈顔〉の解像度を上げることが画面全体の画質を上げることに繋がっていない、と言ってもいいだろう。このパートはそのような不自然さを感じさせるシーンがいくつかある(といってもその違和はそれほど大きなものではないのも事実だが)。また、ここでは一つの〈風景〉のなかに複数のキャラクターの〈顔〉が映り込んでいるシーンが多いが、それは(「内面」の)統一感のなさをもたらしていると言える。新海誠の映像では一つの〈風景〉に一人のキャラクターしか映っていないシーンが多いことも特徴であるが、それは基本的に一つの〈風景〉と結びついているのがキャラクター一人の「内面」だからである(たとえば、『ほしのこえ』や『秒速5センチメートル』は物語としては恋愛モノであるにもかかわらず、キャラクターのツーショットは極めて少ない)。そしてそれによって逆に、同じ〈風景〉にキャラクターが複数いるシーンにはある種の価値が付与されている*9
 そんな学園=日常パートに対比される形で、次のパートでは魔法の箒で縦横無尽に空を飛び回るアリスといった非日常なシーンがやってくる*10。このアリス飛翔シーンでは、〈顔〉のクローズアップ・及びそこからの一気にカメラを引いたロングショットという組み合わせよって、〈顔〉が映し出されるときには〈風景〉が映らず、逆に〈風景〉を映すときにはアリスの姿を一気に引かせることで全体を〈風景〉として映しており、ひとつの画面のなかに同時に〈顔〉と〈風景〉が映し出されないような工夫がなされている*11。この飛翔シーンはノーカットの長回しなので*12、もちろん〈風景〉に〈顔〉が映り込むこともはあるのだが、カメラの動きが余りにも速いためにアリスの〈顔=表情〉の変化を追うよりも先に〈風景〉の変化が視線を捉えるのである。また、この飛翔シーンは、『ef - the first tale.』ムービーのサビ部分で優子の〈顔〉がクローズアップされた直後に遠景化しつつカメラが180度回転し、壮大な〈風景〉が映し出される仕掛けとおおむね同じ流れになっているといえる*13
 こうしてみると、『すぴぱら#01』ムービーはキャラクターの〈顔〉を回避することで生み出された〈風景〉を受け継ぎつつも、キャラクターを押し出すためにそこに〈顔〉を復活させている故に、*14映像的にだいぶ無理をさせてしまっているような強引さや映像的な"うるささ"が、学園パートにおける描きこみ(とそれにも関わらず残ってしまう違和感)・アリス飛翔シーンの(カメラグルグル等)コストかかってる感に表れてしまっていると言える*15。これまでのムービー製作の方法に付け加え、『すぴぱら』でアピールされている「人物の躍動感を、活き活きと感じられる」キャラクターを描こうとした結果、〈顔〉と〈風景〉が衝突事故を起こした、という感は拭えない。
 とまあ、これを書きながら何度もムービーを見返していたらもはや違和感なんてなくなって慣れてしまって、ただただ「わーすごいー」という状態になっているのでもはや何とも言えないのだけど…。


 本来書こうとしていたゲームの画面については機会があったら後日また。

*1:ここで『Wind』『ef - the first tale.』のムービーを例として出したのは個人的な趣味で、他意はなくてただ他のに比べて少しばかり好きというだけです。他の過去作ムービーと比べても同じような傾向がみられます。

*2:これらのムービーはminoiのホームページ「http://www.minori.ph/」にWMV形式の高画質ムービーが存在するか、入手方法が明示されている。

*3:関係ないけど、久々に『ほしのこえ』を観ていたら昇は地球で成長していくのに対して、美加子はずっと少女のままなのだということに今更気づいて自分のボンクラ感に死にたくなった。

*4:このことは、たとえば新海誠がどのようにしてあの〈風景〉を製作しているのかを考えてみても分かる。あの〈風景〉は実写の画像を加工して作り上げられたものだが、それはつまり〈風景〉に関しては総体的には高解像度を得られていることを意味する。一方、人間の〈顔〉についてそのような技法が使えるとは思えない。

*5:絵画において一つの消失点を設定することが物語を表現するのを妨げたにもかかわらず、ここで物語を紡ぐことが可能になったのは、映像がまさしく"動"画としてつくられているからである。

*6:新海誠の作品の主題は何よりも〈風景〉だと言っていい。あそこにある〈風景〉は限りなく"リアル"だが決して"リアル"ではなく、そのような〈風景〉とロマンティシズムが新海誠の作品において共存していることは決して偶然ではない。

*7:他にはたとえば飛行機・桜(の花びら)などのモチーフが頻出である。

*8:もしかすると、顔というよりも眼(の大きさ)の問題が大きいのかも知れない。

*9:たとえば『Wind』のムービーでは屋上シーン等はまさにそのようなシーンである。また、『はるのあしおと』のムービーも参照。このムービーは、基本的に同じ画面ではあるが同じ〈風景〉ではない、つまり画面二分割=〈風景〉二つに二人のキャラクターを映し出しているが、ラストの橋のシーンでは一つの〈風景〉にキャラクターが集まっている。

*10:空を飛ぶことは自由で開放的であるのだが(それはアリスの表情からもシーン全体の爽快さからも分かる)、この夜の飛行は昼間の学園生活との対比でもあり、そのためにこのパートは魔女アリスの孤独を示しているとも言える、かも。

*11:非常に近く、かつ非常に遠いというのはまさしく「風景の発見」である。

*12:最近の作品のムービーに近づくにつれてモンタージュが減って長回しのシーンが増えている、と言えるかも知れない。

*13:はるのあしおと』ムービーでカーブミラーに映る悠が走っているシーンや、『ef - the latter tale.』ムービーの最後で遠景化されて〈風景〉と化していた火村と久瀬の〈顔〉が、直後にクローズアップされるシーンの辺りなども参照。

*14:ムービーではないが、ゲームの立ち絵演出について前作『eden*』では「カメラの前で人間が演技をして、それを撮影したもの」である「ドラマ」を意識しているとnbkzが述べていることも関係あるだろう。動画において〈顔〉を映すというのは基本的に実写の戦略である。

*15:映像的な"うるささ"に関してはED一枚絵の魅力などについて考えてみる必要もある。