farthesky

空から幼なじみ降ってこないかなあ

いろとりどりのセカイ

 とりあえずプレイし終わった勢いで書きます(といいつつ書くのに数日かかってしまいましたが)。たぶんネタバレ全開です。かなりgdgdで粗々になってしまった…。


 はじめに。僕は真紅が毎日反復して祈りの言葉を発し続けている時点で惚れてしまったので、以下は狂信者の文章です。あと、真紅と一緒に毎日日記書いてるのとか(しかも膝の上に座りながら!!!)。もうね、やばかった。

明日も、悠馬にとって素晴らしい日になることを、祈ってるよ
―『いろとりどりのセカイ』二階堂真紅

 こんなのを毎日繰り返されたりしたらもう惚れ込むしかないでしょう。色々言いたいことはあれど(つまりもっと徹底して欲しかったところとかはあるのだけど)、方向性としては全肯定してしまいそうな勢いです、はい。

夢/願い・約束・祈り

 少なくとも人間が直線的時間性にとらわれている限り、祈りは必然です。真紅は毎日繰り返して「明日も悠馬にとって素晴らしい日になる」ことを祈っているわけですが、では「素晴らしい」とはどういうことでしょうか。それはこの物語においては、最終的に夢/願いや約束を叶えるということでしょう。この作品の物語では、どのルートでもそのことが通奏低音をなし、夢/願い、そして約束といったものが核にあります。

同一性―約束―セカイ

 ところで、人の同一性を保証するものは何でしょうか。それは精神分析の登場以降、多重人格という症例の存在が端的に示しているように、「記憶」になったと言っていいでしょう。つまり、もっている記憶が違えば違う人格だということです*1
 『いろとりどりのセカイ』においても、もちろん「記憶」が人格の同一性を保証しているという現代的感覚を前提とはしています。しかし、この作品はそれによって生じる問題を設定し、また、ある種の輪廻転生的世界観を採用することによって、「記憶」とは違った形で同一性を保証しようとします。それではそこで同一性を保証しているものは何なのか。それは、「夢/願い」であり「約束」です。この作品における「夢/願い」が最果ての古書店の管理人=神様との「約束」であることを考えれば、全ては「約束」という特異な言語行為に還元されるでしょう。オースティンは「約束」のことを「aweinspiring(おそろしげ)な遂行的発言」だと呼んでいますが、そのおそろしさは、一つには約束が自分ではなく他人にのみ関係するということにあります*2。もう一つは、約束は今ここにある"現在"と今ここにない"未来"との不等価な危うい交換だということです。だからこそ、「夢/願い=約束」は風津ヶ浜というセカイにおいては「生まれた意味」をも規定するほどのものなのです。また、真紅が毎日繰り返している"祈り"はそういう意味である種の「約束」でもあります。それは真紅自身にではなく悠馬に向けられたものであり、また、未来へ賭けられた言葉だからです。すなわち乱暴に言ってしまえば、この物語は未来へ賭けられた言葉=約束(の力)の話だと言ってもいいでしょう。

君の言葉(答え)そのものが、次の扉を開く選択(キー)だ。
―『いろとりどりのセカイ』夏目鈴

 あるいは、最果ての古書店に保存されている本。そこで悠馬は様々なセカイを本を通じてインプット/アウトプットしています。ただし、そのセカイを自身は経験できないという条件の下で。そして、悠馬が毎日つけている日記。それは言葉を書くことによって(自分がアウトプットした偽物の)セカイと悠馬自身に自らの経験という中身を与えていく作業、とも言えます。ここでは、過去の記述という行為を通じて、まさしく過去がつくられているのです。そしてそのような、過去を記述するという行為を通じての過去の捉え直しによって、悠馬は自分自身をも捉え直していっているのだ、と言えるでしょう。過去の捉え直しによる自己の変革、といったモチーフは次の台詞に象徴されています。

"思い出せ"

それだけのことで、君はすべてを揃えることが出来るんだから

―『いろとりどりのセカイ』夏目鈴

わかるかい? 悠くん、君が自分で思い出す。それが重要なんだよ。それがこのセカイの約束だ
―『いろとりどりのセカイ』夏目鈴

また、悠馬の見る「夢」によって過去が回想=構築されるというのも、夜にみる「夢」と願望といった意味での「夢」(ex.将来の夢)、という夢の両義性が活かされています。
 真紅ルートにおいては、悠馬は再び一日ごとに記憶をリセットされ、毎日「死」に続けています。そして最終的には、今度は悠馬が夏目鈴から物語を読み聞かされることで過去を思い出し、捉え直し、再び自分を変化させるわけですが、その内容はまさしく「今の悠馬ではなくなる」ような内容です。

うん。それにね、この話を徹頭徹尾、完全に完璧に君が理解したなら、君はその瞬間に君じゃなくなってしまう
―『いろとりどりのセカイ』夏目鈴

俺が俺じゃなくなるって言う、それは

……眠って起きたら、今日の俺が明日の俺に移り変わって、別人になってしまうような、そんな理不尽と似ていたりするんですか?
―『いろとりどりのセカイ』鹿野上悠馬

つまり、過去の記憶をもってしまったら、それは新たな人格に他ならず、悠馬という人格の同一性は失われてしまうわけです。しかし、「恋をしたい」という悠馬の願い=約束(ここで約束している相手は未来の自分です)の一貫性/諦めないこと/"忘れたくない"ことこそが、一日ごとに記憶を失い「死」んでいく悠馬/過去の記憶を思い出し自分を変化させる悠馬という人間の同一性を支えることになるのです。

……恋

……ぼくは恋を知りたい
―『いろとりどりのセカイ』鹿野上悠馬の「夢」

 ……諦めたくないことは、諦めない。拒否したい諦観は、拒否したい。

 それが俺が俺がであり続けると言うことの証明だ、と一度くらい思い込んでみてもいいじゃないか。
―『いろとりどりのセカイ』

最終的にはこれまでと同じように物語を書くことで再びセカイが創造されるわけですが、そのセカイに中身を与えるのは、未来へ向けられた願い=約束です。そのことは、はじめから何度も反復されてきた、神様との約束がセカイに生まれた意味を規定しているという事実と実は同型であり、ここでもそのことが反復されているわけです。だからこそ、次のように真紅は言えるのでしょう。

私はこの場所を偽物だなんて思わないよ
―『いろとりどりのセカイ』二階堂真紅

それはもちろん、私たちが生きていたあのいろとりどりのセカイ(場所)も。偽物なんかじゃなかった

それらが作られ生まれてきた理由はどうであれ、私には、何よりもどんなものよりも価値のある、本物だった

あの場所に生きていた者達の、その全てがだ
―『いろとりどりのセカイ』二階堂真紅

だから、悠馬。今日から生まれたこの場所も、私たちの本物に、していこう
―『いろとりどりのセカイ』二階堂真紅

 では、そのような反復の構造はいったい何を示しているのでしょうか。乱暴に言ってしまえば、それは「現実/夢」「本物/偽物」「生/死」といった対をなす隠喩系において、前者が後者に優越しているというのは幻想だということです。だからといって後者が前者よりも根底にあるだとかいうことでもありません。ここで示されているのは、それらがどのように区別立てられてゆくかという過程であって、それ以上でもそれ以下でもないのです。しかしそれ故、ひとたびその過程を認識できたならば、その逆をたどること、あるいは「過去」をその認識の下で捉えなおすことも出来るでしょう。メタフィクションでないフィクションなど存在しないのです。

犠牲―神的暴力による停止

 前のエントリでも少し書きましたが、犠牲の論理は至る所で働いています。それはいわば、人の死を「セカイ」や「国家/民族」などといったものを媒介として正当化/聖別する論理です(そもそもsacrifice=sacrid+make)。何故それで正当化されるかと言えば、ざっくり言ってしまえば、いくら口で「人の命が地球より重い」といったところで、それは端的に嘘だという感覚が広く浸透しているからです。つまり、倫理的階層の中でより上位にあるもののためならば下位のものをもって贖ってもよい(あるいは贖われるべきだ)と思われているということです。あるいは、個人に焦点を当てれば、それはある人の死の意味を一義的に解釈し決定づけることによって、本来ならば悲惨な非業の死をある種の喜びに変え、それを受け入れられるようにする、という役割を果たしていると言えるでしょう(しかし、これはその死に対する疑問を封殺し思考停止に導いているとも言えます。cf.加奈)。その論理が内面化されれば、自己犠牲というものも尊ばれるようになるわけです。そして、犠牲の論理というのは極端なことを言えば、死を共同体(で生きている人)のために利用する、生者の物語に死が取り込まれてしまう、死という現実を生者がその目的/利益/観点から埋め合わせてしまう、ということでもあります。あと、ここでは指摘するだけにとどめておきますが、犠牲の論理は概して例外状態で現れることにも注意すべきでしょう。
 というのは前置きで(長すぎ)、この論理の妄想は結局のところ、実際には誰かの生と誰かの死は決定的に断絶しているにもかかわらず、そこで、誰かの死と誰かの生との間に何らかの関係性を設定してしまうことにあります。そうすると、「誰かの死の"おかげで"生きている」という観念が召還され、生きていること自体にある種の負い目(罪)があるとされるわけです。そしてここには「贖う」という語をみてもわかるように、交換(経済)の論理が隠れているとも言えます。交換は連鎖しはじめます。すると、「死ななくてもよかった/死ぬべきでもなかった」と言えるはずの死がいつの間にか「死んでよかった/死ぬべきであった/死ぬ必要があった」とされてしまうようになってゆくのです。これは例えば、加奈ルートでの商人の町における人柱に見てとることができるでしょう。それでは、そこから脱却するためにはどうすればいいのか。そのためには、どこかでその罪=負い目が"取り消され"なくてはなりません。そしてそれを可能にするものとして存在が想定されるのが神的暴力です。逆に連鎖する暴力は神話的暴力と呼ばれます。神的暴力について一応引用。

神話的暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない。前者が罪をつくり、あがなわせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である。ニオベ伝説と対照的な後者の範例としては、コーラーの徒党に対する神の裁きがあげられよう。
ヴァルター・ベンヤミン『暴力論批判』

 「最果てからの風」はまさしく、罪を取り去り、衝撃的で、血の匂いのしないような暴力ではないでしょうか。しかし、誰かの生と誰かの死との間に関係性が設定されることで(=物語化されてしまうことで)神的暴力は神話的暴力に容易に転落します。だからこそ、次のような偽の問題設定がされてしまうわけです。

 世界を守る。

 ……選ばれた者がそれを拒否すれば、この世界そのものが消えてなくなってしまう。
―『いろとりどりのセカイ』

私は悠馬と一緒にいられなくなるのもイヤだけど、あの子たちを見殺しにしてしまうのも絶対に、イヤなんだっ
―『いろとりどりのセカイ』二階堂真紅

しかし、繰り返しますが、大事なのは実際には誰かの生と誰かの死は決定的に断絶しているということです。つまり、「誰かの死のおかげで生き延びた」のではなく、あくまでも「最果てからの風」=神的暴力の恣意的/確率的選択のために生き延びた、というべきです。「最果てからの風」から逃れられないことはこの作品において執拗に描かれています。では、そのように逃れがたいものとしてある「最果てからの風」=神的暴力とは何なのか。それは、「人間は必然的に死ぬ」という(唯一逃れがたい)事実ではないでしょうか。この事実を認識すること、誰かの生と誰かの死との間にある決定的な断絶を認識することこそこの理路から抜け出すことの出来る可能性であるということが示されていたと言ってもいいのではないでしょうか。詳しくは後で真紅のところに書くかもしれません。


 というわけで、以下各ヒロインについて。

つかさ

 BIの話とか出てきて正直びっくりしましたが、いまいち掘り下げられてない感じがしてしまいました。正直なところ、微妙だったなー、と。
 一つだけ。悠馬はつかさから何度も好意を直接伝えられているけど、そうやって本人から直接伝えられるのではなく、商店街の人という第三者を介してそのことを伝えられる方が嬉しい、という一種の倒錯、あるいは本質が描かれていたなあ、と。いやそれだけですが。

 杏子御津の声おそろしい。もともとこのゲームは貧乳ヒロインがたくさんいて僕歓喜だったわけですが、例外的に鏡は巨乳。しかもロリ巨乳ロリ巨乳って苦手なんだよね…という話はさておき。典型的妹キャラからはちょっとずらされた事による妹ポジションキャラ、というのは少し面白かったかも。

加奈

 正直加奈みたいなキャラは僕は苦手なのだけど、このルートで描かれる"風景"は本当に素晴らしかった。春夏秋冬。特にロケットの夏。まさしく「行こうと思えばどこまでだって行けそうな、そんなあの夏」。
 このルートでは人柱―犠牲の論理―の問題が扱われていますが、まあよくあるパターンかなー、という感じはしました。最後もあゆむが犠牲になっていると言えるわけで。とはいっても、そのあゆむの名を他の人には残さないこと、その記憶から消してしまうあたりは好きだったり(それが倫理的にどうなのかはさておき)。というのは、犠牲となった者の名前が残れば、犠牲があったという事実が残ることになり、それは犠牲の論理を強化し、再生産すると思われるからです。また、あゆむは別に生物として死んだわけではなく、あくまでも彼は彼の願いを叶えたのだといった描写がなされているところにも注目すべきでしょう。
 そういえば、加奈の頭の中の虫も「言葉」に絡んできていました。あとは、自分の頭の中のものが食べられてなくなってしまう、ということに関連して、もちろん記憶と同一性の話にも触れているし、自分の名前を食べられてしまったために偽名をつかっているという形で、「名前」という問題も少し出てきていて、「悠馬」という名の問題につながるのではないかな、と思ったり。これについては、僕自身も色々考え中で、一つには「人は二つ以上の名をもてるのだろうか」という問題の裏返しとしての「一つの名は二つ以上のものを指せるだろうか」という話で。「悠馬」という名が二人の人物を指しているあたりで騙されている感じとかが多少していて(断っておくと騙すこと自体が悪いと言いたいわけではなく、巧い騙しというのはある)、もう少しちゃんと考えたい。後で真紅の話の時にもう一度触れるかも。

澪―幼なじみの可能性

 ついに幼なじみの話。僕は幼なじみが大好きで、もはや信仰の対象だということをまず断っておきます。さて、幼なじみというのは一般には幼い頃から(それこそ物心がつく前から)一緒にいて、過去の経験を共有していることから生じる特別な関係だと思われています。しかし、澪の話では二つのことがその関係の構築を阻んでいると言えます。つまり、第一には悠馬の記憶が一日しかもたないこと(cf.人格同一性を保証しているのは記憶)、第二に澪自身が別のセカイの澪と入れ替わっているために過去の記憶をもっていない、ということです。前者について澪ルートで根本的に克服されることはなく、とりあえずは日記を書くことで記憶を保ち人格を一貫させるという方法で解決され、その問題の根本的解決は真紅ルートへ持ち越されますが、後者についてはしっかりと回答されているといっていいでしょう。つまり、過去の記憶の累積がなくても(というのは少し語弊がありますが)、「幼馴染として出会ったこと」という事実―約束―が二人を幼なじみにするのだ、ということです。

関係性を先取りするの。神様とか運命とか、そう言うものに宣言するんだよ。私たちは幼馴染になりますよって
―『いろとりどりのセカイ』如月澪

おふたりの魂にとって、幼馴染として出会ったこと、その事実が最高の相性には必然であったようですね
―『いろとりどりのセカイ』白

 当たり前ですが、「幼馴染みになる」という宣言には何の内実もありません。それはまさしく、真紅ルートで「いろとりどりのセカイ」を紡いだ物語の言葉と同じです。しかしその宣言・言葉は「約束」として機能していることは分かるでしょう。先述のように、約束は自分ではなく相手のみに関係し、常に危機にさらされる現在と未来の不等価な交換です。相手にのみ関係するという特徴は、まさしく「幼なじみ」という関係性を象徴していると言えます。また、「幼馴染みになる」という宣言に何の内実もないのは、現在とまさしく今ここにない"未来"のことを交換しているからです。しかし、セカイに中身を与えるのが約束だったのと同じように、そもそもそのような危ういはじまりの宣言=約束こそが、幼なじみという関係自体を発生させ、中身を与えていった―このルートでは『虐殺器官』ネタとか使われてて少し驚きましたが、結局「幼なじみになる」という約束/言葉が人間に影響を与え、セカイを変えていく、という(陳腐な言い方ですが)言葉/約束の力の話であって、それが『虐殺器官』ネタとダイレクトにつながってくるからこそ感じられる巧さだったなあ、と。
 というような読みが多少アレであろうということは認識していますが、幼なじみ原理主義者過激派なので赦してください。悠馬と澪とが互いにパラレルに関わっている、記憶―あるいは人格同一性―と幼なじみ、という問題系にそれなりにしっかり答えててすごく良かったです。
 あと、連鎖する神話的暴力をとめるための神的暴力という話も一応。神埼とおるは澪の両親を殺害したわけですが、「殺人」というのは特異な犯罪です。なぜなら、他の犯罪では「被害者」が存在しますが、殺人という犯罪においては「被害者」が既にこの世に存在しないからです。そこには非対称性があり、「目には目を、歯には歯を」は既に成り立ちません。復讐を持ち出せば、それは必ず連鎖する神話的暴力となります。では、その償いはどうすればいいのでしょうか。何もしなくてよい/何もしないのがよいのです。何故なら、人間は必然的にいつか死ぬからです。それこそが神的暴力の表れだと考えられます。すなわち、贖罪は出世間させて、老化して死ぬのを待てば良いのです。何故これが現代において受け入れられないかといえば、国民国家の統治領域が全地球を覆ってしまったと考えられている現代においては、出世間とはすなわちあの世に行くことに他ならないからです。しかし、この作品はそうではありません。

うん。私がどういった判断を下すかと言った問題もあるけれど、そうだな、どこか遠い誰も知らないような小さな国で、幸せになってもらおうか
―『いろとりどりのセカイ』夏目鈴

これは真紅ルートにおける悠馬の贖罪(という言い方は不正確で、正確には罪を取り去るということですが)を先取りしています。こういった点も僕はもう大好きです。愛してます。

真紅

 真ルート。真紅かわいい。真紅のかわいさだけでホットケーキ10枚はいける。ホットケーキおいしい。「おうちでも手軽につくれて、大喜び」というホットケーキの良いところをまさしく体現している。
 というのはさておき。でも真紅ルートに関してははじめの方でほとんど書いてしまったような気がして、あんまりここに書くことがないことに気づきました…。真紅ルート解放の条件である真紅以外のヒロイン攻略というのは、寮のみんなの願いを叶えることだなんていう当たり前のことはいいとして。とりあえず色々思い出しながら書きます。
 真紅がはじめにいう

私はお前の願いを叶えるために、お前は私の願いを叶えるために、ここにある
―『いろとりどりのセカイ』二階堂真紅

という台詞はやはり「約束」という観点から見ると象徴的です。繰り返しになりますが、約束(=願い)は相手にのみ関係するものです。ここでストレートに「私は"私の"願いを叶えるために、お前は"お前の"願いを叶えるために」となってはおらず、願いを所有者と叶える人とがあべこべになっていることはそのことを明確に表しています。そのことに気づくのに、悠馬は藍との対話が、真紅は一年間という時間が必要だったのだ、と言えるでしょう。そして、「恋をする」という願い自体、そこに「誰と」が欠けている限り内実はないと言っていいでしょう。この願いを実際に叶えるため(=約束を守るため)にはそこでもお互いがお互いを必要としていたのであり、その意味でも、この台詞はセカイに中身を与えていく存在として「私」と「お前」が「ここにある」ということを表しています。

 "恋をしよう"。俺の願いは今日、ここから――

 そしてこの先の未来で、更に強く、"恋をすること"のその先へと、叶えられていく。誰よりも心優しい神様が僕たちを見ていてくれるから。
―『いろとりどりのセカイ』鹿野上悠馬

 あとは何だろう…。両親の設定とか。両親は物理学者と神学者だということでしたが、真紅はその両方の特徴を受け継いでいる、とか。まあなんというか、言ってしまえば計算可能性を追求する真紅が毎日祈るとか、普通に惚れるしかないですね。

 これから何か、どうしようもなく痛くて悲しいことがあったなら……空を見上げて

 そこに一片の白色を見つけたら、もうあななたちは泣けないよ

 悲しいことの何もかもをまるごとぜんぶ、私が貰っていくから、それが、お仕置き
―『いろとりどりのセカイ』二階堂藍

 悲しみ自体を取り去る、というのはかなりやばい感じが直感的にします。流石は藍。人間は"悲しみ"に耐えられないからこそ、その原因に意味を与えて受け入れられるようにするわけですが、それがおおもとを断つことによって禁止されてしまうわけです。

FOOTPRINTS IN THE SAND

 風津ヶ浜での最後の日、砂浜で二人の足跡の話をし出すので、「あー、"FOOTPRINTS IN THE SAND"だなー」と思っていたら、まさにその詩の話が直後でなされていてなんというか。最後、悠馬が真紅をおぶって歩いていくシーンなどはまさにFOOTPRINTS IN THE SANDの風景だなあ、とか。悠馬は神様だったのだから。

私は……私は、ひとりじゃこの道を歩けなかったんだ
―『いろとりどりのセカイ』二階堂真紅

 ……俺たちの夏は、今日、ここから、始まっていく。

 遠い海の向こうから柔らかな風が吹き。

 "あなたの願いが優しく叶えられますように"と、一片の羽根に願いをのせて。
―『いろとりどりのセカイ』

 夏ですよ夏!!!(錯乱)

サンクチュアリ

このセカイ 二人だけのサンクチュアリ
―『サンクチュアリ』歌詞

 真紅ED曲は「サンクチュアリ」ですが、"sanctuary"には「聖域」「逃げ込み場所」「罪人庇護権」といった意味があります。歌詞からわかるように、最後に創造されるセカイが"sanctuary=聖域"なわけですが、分かりやすいのは「逃げ込み場所」や「罪人庇護権」といった意味の方です。ここにおける「罪人」とはもちろん悠馬のことです。つまり、その最大の罪は悠馬が"悠馬"と"藍"とを殺してしまったことでしょう。その贖罪はどのようにして行われるのか。それについては澪ルートの話の最後で述べたとおりです。すなわち、悠馬が"人間として"必然的に死ぬという逃れがたい事実=神的暴力に従うということです。このsanctuaryは「いろとりどりのセカイ」のうちの一つに過ぎません。つまり、そこでは必ず人は死ぬのであり、永遠はないのです。一方、「最果ての古書店」にいる限り、悠馬は"永遠"です。その「最果ての古書店」を抜け出して、有限の新たなセカイ(=二人だけのサンクチュアリ)を創造し、そこで死すべき人間として幸福になるということ。これこそが、先に澪ルートの話の最後で引用したことのまさしく実践であると解釈できるのではないでしょうか。
 ただ、個人的に気になると言えば気になるのは、「最果ての古書店」に巣くって、古書店を暴走させていた連中はどうなったのか、とかいう(たぶん極めてどうでもいい)ことで、あの連中こそ罪があるよなー、という(完全に蛇足)。

シナリオ以外のことも

CG

 素晴らしかった。真紅かわいいよ。いやほんと。
 あと、背景きれいでしたね。空とか。背景ぼかす演出とかもあってよかった。

CV

 真紅の声すごくあってたよなあ、と。もちろんそれは何十時間もプレイして洗脳されたというのもあるんだろうけど、それでも。




 そしてほとんど真紅の話しかしていないことに気づく。。。

 愛のある文章を書くのは実に難しい………この作品がプレイできて幸せでした。

*1:それ以前は「魂」がその同一性を保証していたと言えます。このあたりの話はI・ハッキングの『記憶を書きかえる』という本を参照。

*2:「約束」は自分がどう思っていようが、相手に「約束」だと認められなければ全く意味はありません。