farthesky

空から幼なじみ降ってこないかなあ

『映画けいおん!』

 元旦に二回目を見に行った。いつの間にか、ナチュラルに泣いていた。
 何か書き残しておこうと思ったのでつらつらと書く。一応ネタバレ注意。



 と書いたものの、この映画にはネタバレになるような"ネタ"は存在しない。
 映画の序盤、いつもの違う雰囲気の軽音部に「映画だからやっぱり変えてくるのか」と一瞬思わされるのもつかの間、すぐにそれは冗談だったことが明らかになり、安心させられる。映画でもゆるふわ空間が続いていくのだ、と。最後の教室ライブのシーンも、Death Devilの時とは対照的に、ゆるふわ空間になっている。そこにネタバレと騒がれるような"ネタ"で無理矢理駆動されているものはない。
 そもそもTVアニメの視聴者は話のオチ―天使―を予め知っているのだ。それは、「あらかじめ失われた未来」に対する諦念/不安を視聴者に呼び起こしてもおかしくない。しかし、序盤から、そんなものははじめから存在しないのだということを教えてくれる。
 何か「スケールの大きなもの」を期待して行ったロンドンで彼女たちは高校三年間でやってきたことを反復し、彼女たち自身も、結局いつものままでよいのだということに気づく。現在/日本→過去/ロンドン→未来/日本という彼女たちの移動を考えると、唯の時間に関する冗談はそこにもうまく絡んでいる。いや、そう見えるのは僕が視聴者だからであって、むしろそれは必然なのだろう。なぜなら、あそこには彼女たちしかいないのだから。

 この映画はただひたすらに丁寧だ。もう、ほんと、ひたすらびっくりするほどに。
 それはキャラクター達の仕草一つとってもそうだ。例えば、軽音部五人の会話。そのうち二人同士がしゃべっていて、もう二人の組もしゃべっている。そして、残りの一人がバスに気づく。五人一緒に会話なんてことは、できないのだ、もちろん。そして、一般に"モブキャラ"と呼ばれるキャラクターたちの会話はノイズなどではなく、"会話"である。例を挙げれば本当にキリがないが、ここで行われているのは画面の重層化である。現実は薄っぺらな一枚な平面などではない。それは様々なレイヤーが重なり合ってできている空間である。それを考えれば、画面を重層化するしかない。それが行われているのは、途中に特定のキャラクターに焦点を合わしたことによって、他が微妙にピントぼけしているシーンがあることからも直裁にわかる。
 それらが"空間"の重層化だったならば、時間も重層化されている。つまり、そこにあるのは単線的な時間ではない。そこにははじめに書いたような大きな反復があり、また、小さな反復もある。ロンドンにおける澪の「回転」に対するトラウマがだんだん冗談となって消化されていく過程などは、まさにそうだし、ホテルでの唯と梓の探しっこも、その一つだろう。そして、そのことこそが時間が流れているのだということを強く感じさせるのだ。

 「成長」とはある段階間の移動などではない。高校生が大学生になったからといって何かが劇的に変化するわけでは当然無いし、ある人が二十歳になったからといって何かが劇的に変化するわけではない。そこは連続している。いや、そこに限らず全てが連続しているといえる。人はいつも変化している、より正確に言えば変化し続けている。それは事実だ。しかし、その中からある「変化」を特権的に取り出して「成長」だと名指すことには常に恣意性がつきまとう。そしてそこに無頓着なまま、自らが取り出した「変化」がないように見えるからといって「成長」がない、と批判するのは何も見えてないに等しい。彼女たちは変化し続けている。そして、それはその丁寧さによって、見事に描かれているのではないだろうか。

 最後のシーン。右へ向かって、卒業する軽音部員たちは歩いていく。画面にあるのは彼女たちの足だけだ。それでも、それだけのことから、その足だけから、僕たちは彼女たちが誰なのかがわかる。これは本当にすごいことだ。

 あとはもう、屋上で走りながら叫ぶシーンとか。最高だった。

 天使の存在を、たとえ一瞬でも、信じさせてくれてありがとう。