farthesky

空から幼なじみ降ってこないかなあ

10 years

 先日、トリウッドで新海誠の過去四作品を見てきた(『星を追う子ども』は見なかった)。そういえば、『ほしのこえ』の初演はトリウッドだったらしい。 > http://homepage1.nifty.com/tollywood/2011/shinkai-sp/shinkai-sp.html

 やはり連続で見るとわかりやすく感じられるのが、ロマンティシズムが現実に敗れ去っていく過程だった気がする。雑なことを言うと、『ほしのこえ』では時間的/空間的に僕たちは離れてしまっているけれども、それでも(この現実ではないどこか=心で)つながっていることが信じられる、ロマンをまだ信じられる、というところで終わる。それが『雲のむこう、約束の場所』においては、佐由理/世界/塔の見る夢=並行世界・そこでの約束というロマンは現実によって否定されることになる。つまり、蝦夷の塔というロマンの象徴は破壊され、「約束がなくなったこの世界で僕たちはまたはじめればよい(また、そうするしかない)」というところに着地する。さらに『秒速5センチメートル』になると、まず風景としてのロマン(遠景)自体が画面に登場しなくなり、ロマンは主人公の心の中にだけあるものになる。そして主人公はロマンティシズムを捨てらられないにも関わらず、現実においてそのロマンは完全に否定されて終わる。

 『秒速』は第三話が特に顕著だが、主人公は基本的に現実にもロマンにもいることができない中途半端な存在として描かれている。それは、『ほし』においてはロマンにいることが出来た(と錯視させられる)主人公/ヒロイン・『雲のむこう』においては現実にいることを選択できた主人公たちとは明確に違う。つまり、第一話では貴樹は延々と現実とロマンの間を動くことが出来ず(電車は止まってしまう)、第二話では現実ではなくロマンに目を向けているが、そのロマン自体は既に信じられていない。つまり、彼は送るあてのないメールをただひたすら打っている。そして第三話では、自分の部屋にも会社にも居場所はなく、都市を目的なくただ彷徨うことしか出来ない。ロマンを幻視しても、その次のときには消えている。

 新海誠は「距離」を描く作家だとよく言われる。事実、そうなのだろう。彼は空間的な距離/時間的な距離というのを表現するのが巧い。(距離)=(速さ)×(時間)であるということをしっかり表現する。それは我々が素朴に抱きがちなコミュニケーションに対する考えをそげぶしているということでもある。これについては、具体例を挙げるだけで十分だろう。それは例えば、『ほし』における携帯電話であったり、『秒速』第一話における手紙だったりする。

 しかしなんと言ってもやはり新海作品における特徴はやはりその背景だろう。それはリアルだが、もちろんリアルではない。そのことをどう考えるべきだろうか。ここでは、その技法がフェルメールと同じであることを指摘するにとどめる。というか、僕も考え中。


 それでも、ロマンティシズムを捨てられない。