farthesky

空から幼なじみ降ってこないかなあ

奇跡

 奇跡なんて存在するんだろうか?もし奇跡が存在するとしたら、それは純粋な贈与とでも呼ぶべきものに違いない。贈与以外の方法、つまり経済によって得られたものは奇跡ではないだろう。よって問題は純粋な贈与はあり得るか、ということになる。

 いうまでもなく、僕らは不可逆的な時間変化にとらわれている。過去から現在、そして未来へ。その枠の中でしか僕らは現実を認識できない。その時系列に沿って僕らは物語をつむぐしかない。

 そしてまた、僕らは経済の原理にもとらわれすぎている。それは等価交換という論理である。何かを得るためには何かを失う必要がある―等価物が存在し、契約関係が成立するという、あの考えだ。あるいはこう言い換えてもよい。あらゆるものには原因と結果がある、という物語の論理だ。もちろんそれを妄想だと、幻想だということは簡単だが、一方でその幻想に僕たちがとらわれていることもまた事実である。

 こんな檻に閉じこめられている僕たち人間は、奇跡―純粋な贈与―を目にしたとき、経済の原理に忠実に物語をつむいでしまう。過去、あるいは未来でのあの行い/出来事…が現在のこの奇跡を生んだのだ、と。

 奇跡―純粋な贈与―は僕たちには認識できない、いや、できてはならない。それは直接的にも、間接的にも、である。認識できてしまった瞬間、それは奇跡ではなくなってしまうからだ。奇跡を認識してしまった瞬間、僕らはそこに交換の論理―交換経済の原理―を見て取ってしまう。それは既に純粋な贈与ではなくなっており、単なる交換―契約関係―へと転化してしまっている。

 いわば、奇跡とは理不尽なものなのだ。しかしその理不尽さを解消してしまっては奇跡ではなくなってしまう。

 さて、奇跡は存在しない、と言えるだろうか。認識できないものは存在しないだろうか。そんなことはわからない。それは全くないかもしれないし、世界に遍在しているかもしれない。ex."世界は在る"