farthesky

空から幼なじみ降ってこないかなあ

WHITE ALBUM2 -closing chapter-

 WHITE ALBUM2。ひたすら死にたくなるというつらいゲームだったわけだが、それでも素晴らしかったといわされてしまうすごさ、というのが確実にあった(というか、その完成度の高さは認めざるをえない)。物語としては基本的に嫌い(だって死にたくなるんだから)だということもあって、大変ambivalentな感情を抱いている。余生には辛いゲームだった。

恋愛シミュレーションゲーム

 WA2はある意味で恋愛シミュレーションゲームの極北であるといえるだろう。すなわち、主人公春希は現代における「恋愛」の制度/規範という抽象的な対象を目指すべきモデルにしており、まさしくその規則(のみ)に従うこと=純粋なゲームが行われているようにみえる。
 丸戸史明のシナリオにおいては、基本的に超物理的な現象が排除されている。一般に、ある種の奇跡—超物理的な現象や能力(それはファンタジーでもいいしSFでもいいが)—が導入された物語では、その現象/能力独自の法則や規則も同時に導入されなければならず、それを用いてシナリオの展開に説得力をもたせる、という手法がとられることになる*1。もちろん、そのような非現実的要素との組み合わせによって、完成度の高い恋愛シミュレーションゲームをつくることは可能だし、実際そういった作品は数多ある。そこでは、そのような非現実的要素が「恋愛」を構成しているものの一部として存在している。しかし、そのような非現実的な設定を使わないとなれば、必然的に「恋愛」は現実的要素のみで構成されることになる。「恋愛」の現実的要素とはつまるところ、そこに発生する人間の欲望・気持ち(内面)と恋愛の制度性・倫理性(外面)しかない。しかし、もちろんそれらは互いに自立して存在するわけではない。何故春希の恋心はあっちへ行ったりこっちへ来たりでふらふらと定まらないのか?それは彼に具体的なモデル=ライバルとなる人物がおらず、彼に承認を与えるのは抽象的な制度性・倫理性でしかないからだ(だから彼が「委員長」キャラクターなのは必然的と言える)。「"誰"を彼女にするべきなのか」「"誰"を愛しているのか」といった問いの回答に対して承認を与えてくれる具体的な他者が彼にはいない。結局、彼の内面には「"誰に対しても"浮気はしてはならない」といったような戒律しか存在しないのだ。春希という主人公の固有性と、ヒロインの一般性。ここに悲劇の一つの原因がある。
 また、非現実的要素が「恋愛」を構成している場合には、「○○を救う」だとかいったような話が「逃げ」として機能するのに対して、WA2でそのような「逃げ」は許されない。この真剣さ・余裕のなさを体現しているのが主人公である春希であり、それはWA2全体を貫く通奏低音として至る所に現れているし、その余裕のなさゆえに春希や雪菜、かずさ、また他のキャラクターたちは破滅していくのである。
 死にたい。

「コンサートに行く」という選択肢(たぶん書き途中)

 ccの大晦日、「コンサートに行く」という選択肢が表示されるルートがある。この選択肢はcodaに行くと消えてしまうのだが、この選択肢が見えているときにも、ロックがかかっているためにプレイヤーは選ぶことが出来ない。これはプレイヤーがどうあがいても「コンサートに行く」という選択肢を選べない、ということだろう。だが、絶対に選べない選択肢ならば、何故その選択肢を提示するのだろうか。その意味あるいは効果は何か。
 まず、「コンサートに行く」という選択肢は実際には何を引き起こすと考えられるのか確認すれば、それはかずさと再会することであることは容易にわかる。そこで、プレイヤーは「かずさルートに入るためにはこの選択肢のロックを解除すればいいんだな」と考え、そのためにゲームを進行させるわけだが、結局そのロックは解除されないまま、雪菜ルートだと思われるルートに入っていきcodaがはじまってしまう。さらに、後から見るとそもそもその選択肢がなくなっていることに気づく。
 これは、codaという未来を選んだ時点で、ccでかずさと再会するという過去の可能性は完全になくなってしまうことを意味している。故に、この選択肢の存在はccに対するicの存在と類比的であると言えるだろう。icとの相違点は、違う可能性の存在を明示的に教えられてしまう点にある。しかも、この選択肢は、そのような可能性があり得ることではなく、あり得ないことを示しているのだ。これはどういうことだろうか。
 icにおいては他の可能性、つまり選択肢は端的に「存在しない」。しかし、ccにおけるこの選択肢は「存在しない」ということを「存在させている」、と言える。あるいは、それはここにおいては主人公とプレイヤーの乖離が起こっていると言ってもいいだろう。すなわち、一般にゲームの主人公にとって他の可能性は端的に「存在しない」が、プレイヤーにとっては「存在しない」ということが「存在しうる」、と言える*2。だが、それは通常意識されず、ゲームプレイ中は主人公とプレイヤーの層は曖昧に混じり合っている。しかし、ccにおける選択肢の存在は、それらの層を決定的にわかち、いわば、ゲーム画面に(主人公とは全く異なった存在としての)プレイヤーの意識を存在させてしまっているのだ。
 プレイヤーはcodaに行くため(ひいてはかずさルートに行くため)に、どうしたってゲームをすすめなければならない。その過程において、システム的に選択不可能な選択肢を存在させること=プレイヤーの意識をゲーム内に現前化させることは、プレイヤーに「選択の錯視」を引き起こすことになる。もしこの選択肢がなければ、「ccにおいてかずさに会えたかも知れない」という可能性をプレイヤーが考えることはなく(=プレイヤーの意識は現前化することなく)、それは物語内の必然性(=主人公の意識)に縛られているものだと素朴に思ったままだっただろう。つまり、ここで重要なのは「かずさと会えたかもしれない」という可能性をプレイヤーに意識させ、「かずさを選ばす雪菜を選んだ」という刻印がプレイヤーの「意識」に植え付けられることである。それによりはじめてcodaが可能となるのだ。この選択肢の存在は(少なくとも僕は)全く共感できない春希という主人公をプレイヤーに追わせつつも、しっかりプレイヤーに「死にたくならせる」ための技術が剥き出しとなっているところだと言える。共感するためにはプレイヤーは主人公と同一化しなければならないが、この選択肢が示しているのはむしろ共感は目指されていないということである。ここではプレイヤーの共感と意識とは分離しており、共感によって主人公と同一化をはかるのではなく、意識的に主人公を理解させることが目指されている、と言ってもいい。
 そもそも、WA2という作品においては、恋愛=ゲームの地に足のついた"現実"全てを嫌らしいまでに描いてしまっている(というよりクドクド説明している)ので、あらゆる出来事が隙なく因果的(というのは強すぎかもしれないが)に辿れてしまって、穴がないようになっている。故に生理的にどうだろうと(=共感なんて出来なかろうと)、理詰めで説得されてしまう、という計算し尽くされた死にたさがあるわけだが、この選択肢はその構造を明示化している。つまり、このゲームのテクストはプレイヤーの「意識」に直接働きかけることが目指されている。それは基本的にポジティヴな形で描写されるため、そのこと自体を意識することはないが、それがいったんネガティヴに語られると、そのことが明るみにでる。
 考えてみればエロゲの主人公に「共感」できる、というのは素朴に考えるとやばい状態だ(そこに人間の共感能力の偉大さをみることはできるし、類型的な物語に多く触れればもちろん共感できるようにはなるが)。問題は、その共感できない状態からプレイヤーをいかに説得していくかにある。そこで使われる一つの技術がエロゲにおける選択肢ということになるだろう。エロゲをプレイし始めた時点で、プレイヤーは既に物語そのものを選ぶことが出来ない。その選択不可能性を隠蔽し、プレイヤ−の能動的選択=意識の現前化を強いることによって無理矢理「選択の錯視」をさせることによる意識的な説得*3。WA2ccのこの選択肢においては、そこのことがまさしく明るみに出ている。この選択肢が絶対に選べない選択肢として提示されるという事実、それは極めて象徴的である。

各個別ヒロインについて雑感

 あくまで雑感。適当。

かずさ

 僕はかずさ派だということをまずはじめに断っておく。そして敢えて乱暴にまとめてしまうならば、この作品はかずさを選ぶか、それともそれ以外の世界を選ぶのか、ということになる。それはかずさtrueルートで嫌らしいまでに示されている。つまり、(春希とは元々住む世界の全然違う)かずさを選ぶならばそれ以外は全て捨てなければならないのだ。死にたい。
 かずさのかわいさ?色々ため込んでしまうところとか、でも結局最後には爆発させてしまうところとか、それでもプライドはあるところ(ex.かずさnormal end)とか。雪菜とはまた違う意味で恐ろしいヒロインだった。

雪菜

 雪菜trueルートはいかにも丸戸らしいシナリオ。というのは、雪菜ルートでは周りの友人たちに助けられつつ、というのが重要になっているあたり。そこはかずさルートと対照的であり、かずさルートでは春希はそんな友人たち(の助け)を振り切ってしまう。って結局かずさの話になっちゃったよ…。
 雪菜を一言でまとめれば(究極的には)「自己中心的」ということになるのではないかと思う。だから嫌いだというわけでもないのだけど。雪菜trueは雪菜trueで好きだし。

小春

 小春は春希として描かれているわけだけど(「小「春」希」)、僕は大嫌いなキャラ。おそらくこのルートが最も苦痛だった。なんか思い出すのも苦痛なレベル。よってこれ以上書けない。

千晶

 どんでん返し。ずるい。
 そもそも作中作というものが好きな僕はこのルートは好きだった。

麻里

 マジでかわいいです、はい。僕は基本的に年上キャラは苦手で、いつもエロゲやるときは年上キャラルートを進めるのが億劫なのだけど、麻里さんは本当にかわいかった。しかし何故処女なのか…とか素朴に思ってしまったけど。


 誠実さと理不尽さとは何の矛盾もなく両立してしまうんだなあ、ということを改めて感じたゲームだった。
 死にたい。

*1:例えば、最近僕がやったゲームの例を出せば、『はつゆきさくら』では「ゴースト」が登場し、その性質や秘密が物語と絡んでいる。また、『いろとりどりのセカイ』では主人公が自分の記憶と引き換えに治癒能力をもっている、という設定がある

*2:その顕著な例としては二次創作という現象がある。

*3:むろん、そういった物語たちを通じてエロゲ的状況を自明視していくことによって、最終的には感情移入や共感がもたらされうるだろう(cf.ローティ的道徳教育/感情教育

『映画けいおん!』

 元旦に二回目を見に行った。いつの間にか、ナチュラルに泣いていた。
 何か書き残しておこうと思ったのでつらつらと書く。一応ネタバレ注意。



 と書いたものの、この映画にはネタバレになるような"ネタ"は存在しない。
 映画の序盤、いつもの違う雰囲気の軽音部に「映画だからやっぱり変えてくるのか」と一瞬思わされるのもつかの間、すぐにそれは冗談だったことが明らかになり、安心させられる。映画でもゆるふわ空間が続いていくのだ、と。最後の教室ライブのシーンも、Death Devilの時とは対照的に、ゆるふわ空間になっている。そこにネタバレと騒がれるような"ネタ"で無理矢理駆動されているものはない。
 そもそもTVアニメの視聴者は話のオチ―天使―を予め知っているのだ。それは、「あらかじめ失われた未来」に対する諦念/不安を視聴者に呼び起こしてもおかしくない。しかし、序盤から、そんなものははじめから存在しないのだということを教えてくれる。
 何か「スケールの大きなもの」を期待して行ったロンドンで彼女たちは高校三年間でやってきたことを反復し、彼女たち自身も、結局いつものままでよいのだということに気づく。現在/日本→過去/ロンドン→未来/日本という彼女たちの移動を考えると、唯の時間に関する冗談はそこにもうまく絡んでいる。いや、そう見えるのは僕が視聴者だからであって、むしろそれは必然なのだろう。なぜなら、あそこには彼女たちしかいないのだから。

 この映画はただひたすらに丁寧だ。もう、ほんと、ひたすらびっくりするほどに。
 それはキャラクター達の仕草一つとってもそうだ。例えば、軽音部五人の会話。そのうち二人同士がしゃべっていて、もう二人の組もしゃべっている。そして、残りの一人がバスに気づく。五人一緒に会話なんてことは、できないのだ、もちろん。そして、一般に"モブキャラ"と呼ばれるキャラクターたちの会話はノイズなどではなく、"会話"である。例を挙げれば本当にキリがないが、ここで行われているのは画面の重層化である。現実は薄っぺらな一枚な平面などではない。それは様々なレイヤーが重なり合ってできている空間である。それを考えれば、画面を重層化するしかない。それが行われているのは、途中に特定のキャラクターに焦点を合わしたことによって、他が微妙にピントぼけしているシーンがあることからも直裁にわかる。
 それらが"空間"の重層化だったならば、時間も重層化されている。つまり、そこにあるのは単線的な時間ではない。そこにははじめに書いたような大きな反復があり、また、小さな反復もある。ロンドンにおける澪の「回転」に対するトラウマがだんだん冗談となって消化されていく過程などは、まさにそうだし、ホテルでの唯と梓の探しっこも、その一つだろう。そして、そのことこそが時間が流れているのだということを強く感じさせるのだ。

 「成長」とはある段階間の移動などではない。高校生が大学生になったからといって何かが劇的に変化するわけでは当然無いし、ある人が二十歳になったからといって何かが劇的に変化するわけではない。そこは連続している。いや、そこに限らず全てが連続しているといえる。人はいつも変化している、より正確に言えば変化し続けている。それは事実だ。しかし、その中からある「変化」を特権的に取り出して「成長」だと名指すことには常に恣意性がつきまとう。そしてそこに無頓着なまま、自らが取り出した「変化」がないように見えるからといって「成長」がない、と批判するのは何も見えてないに等しい。彼女たちは変化し続けている。そして、それはその丁寧さによって、見事に描かれているのではないだろうか。

 最後のシーン。右へ向かって、卒業する軽音部員たちは歩いていく。画面にあるのは彼女たちの足だけだ。それでも、それだけのことから、その足だけから、僕たちは彼女たちが誰なのかがわかる。これは本当にすごいことだ。

 あとはもう、屋上で走りながら叫ぶシーンとか。最高だった。

 天使の存在を、たとえ一瞬でも、信じさせてくれてありがとう。

10 years

 先日、トリウッドで新海誠の過去四作品を見てきた(『星を追う子ども』は見なかった)。そういえば、『ほしのこえ』の初演はトリウッドだったらしい。 > http://homepage1.nifty.com/tollywood/2011/shinkai-sp/shinkai-sp.html

 やはり連続で見るとわかりやすく感じられるのが、ロマンティシズムが現実に敗れ去っていく過程だった気がする。雑なことを言うと、『ほしのこえ』では時間的/空間的に僕たちは離れてしまっているけれども、それでも(この現実ではないどこか=心で)つながっていることが信じられる、ロマンをまだ信じられる、というところで終わる。それが『雲のむこう、約束の場所』においては、佐由理/世界/塔の見る夢=並行世界・そこでの約束というロマンは現実によって否定されることになる。つまり、蝦夷の塔というロマンの象徴は破壊され、「約束がなくなったこの世界で僕たちはまたはじめればよい(また、そうするしかない)」というところに着地する。さらに『秒速5センチメートル』になると、まず風景としてのロマン(遠景)自体が画面に登場しなくなり、ロマンは主人公の心の中にだけあるものになる。そして主人公はロマンティシズムを捨てらられないにも関わらず、現実においてそのロマンは完全に否定されて終わる。

 『秒速』は第三話が特に顕著だが、主人公は基本的に現実にもロマンにもいることができない中途半端な存在として描かれている。それは、『ほし』においてはロマンにいることが出来た(と錯視させられる)主人公/ヒロイン・『雲のむこう』においては現実にいることを選択できた主人公たちとは明確に違う。つまり、第一話では貴樹は延々と現実とロマンの間を動くことが出来ず(電車は止まってしまう)、第二話では現実ではなくロマンに目を向けているが、そのロマン自体は既に信じられていない。つまり、彼は送るあてのないメールをただひたすら打っている。そして第三話では、自分の部屋にも会社にも居場所はなく、都市を目的なくただ彷徨うことしか出来ない。ロマンを幻視しても、その次のときには消えている。

 新海誠は「距離」を描く作家だとよく言われる。事実、そうなのだろう。彼は空間的な距離/時間的な距離というのを表現するのが巧い。(距離)=(速さ)×(時間)であるということをしっかり表現する。それは我々が素朴に抱きがちなコミュニケーションに対する考えをそげぶしているということでもある。これについては、具体例を挙げるだけで十分だろう。それは例えば、『ほし』における携帯電話であったり、『秒速』第一話における手紙だったりする。

 しかしなんと言ってもやはり新海作品における特徴はやはりその背景だろう。それはリアルだが、もちろんリアルではない。そのことをどう考えるべきだろうか。ここでは、その技法がフェルメールと同じであることを指摘するにとどめる。というか、僕も考え中。


 それでも、ロマンティシズムを捨てられない。

奇跡

 奇跡なんて存在するんだろうか?もし奇跡が存在するとしたら、それは純粋な贈与とでも呼ぶべきものに違いない。贈与以外の方法、つまり経済によって得られたものは奇跡ではないだろう。よって問題は純粋な贈与はあり得るか、ということになる。

 いうまでもなく、僕らは不可逆的な時間変化にとらわれている。過去から現在、そして未来へ。その枠の中でしか僕らは現実を認識できない。その時系列に沿って僕らは物語をつむぐしかない。

 そしてまた、僕らは経済の原理にもとらわれすぎている。それは等価交換という論理である。何かを得るためには何かを失う必要がある―等価物が存在し、契約関係が成立するという、あの考えだ。あるいはこう言い換えてもよい。あらゆるものには原因と結果がある、という物語の論理だ。もちろんそれを妄想だと、幻想だということは簡単だが、一方でその幻想に僕たちがとらわれていることもまた事実である。

 こんな檻に閉じこめられている僕たち人間は、奇跡―純粋な贈与―を目にしたとき、経済の原理に忠実に物語をつむいでしまう。過去、あるいは未来でのあの行い/出来事…が現在のこの奇跡を生んだのだ、と。

 奇跡―純粋な贈与―は僕たちには認識できない、いや、できてはならない。それは直接的にも、間接的にも、である。認識できてしまった瞬間、それは奇跡ではなくなってしまうからだ。奇跡を認識してしまった瞬間、僕らはそこに交換の論理―交換経済の原理―を見て取ってしまう。それは既に純粋な贈与ではなくなっており、単なる交換―契約関係―へと転化してしまっている。

 いわば、奇跡とは理不尽なものなのだ。しかしその理不尽さを解消してしまっては奇跡ではなくなってしまう。

 さて、奇跡は存在しない、と言えるだろうか。認識できないものは存在しないだろうか。そんなことはわからない。それは全くないかもしれないし、世界に遍在しているかもしれない。ex."世界は在る"

失われた夏を求めて

 円環する夏。


 夏の魅力はまさに全体論的だというのが正しい。夏は、花火や海やスイカ入道雲や………そういった「夏っぽいもの」の総体からなっているのではない。そういう風に夏を要素還元的に考えてしまうのは決定的な過ちである。


 夏。行こうと思えばあの雲の向こうにだって、あの地平線の向こうにだって、彼方にまで行けそうな、そんな空気に満たされていた夏が僕は大好きでした。


 さようなら。


 また来年。